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それは昭和十年代のいつか来た道

今から30年前1980年代後半に書かれた半藤一利氏の散文である。
さすが、歴史を真摯に見つめ続ける半藤さんだけあって、その予測がずばり当たっているのではないか!
半藤さんが30年前に危惧した姿こそ今の日本ではないのか・・・・・



・・・・・・・・・・・・
少しばかり丁寧に当時の記録や資料を読んでいけばわかることであるが、昭和十五年(一九四〇)の五月以降、すなわちナチス・ドイツの電撃作戦の大成功が伝わるようになってから、日本の民衆意識にはかなり大きな変化がみられるようになっていた。一つの標語がある、「バスに乗り遅れるな」である。
 もちろん底流には、日中戦争の泥沼化にともなうインフレ・物資不足、それにたいする不満の深刻化ということがあった。そのお先真っ暗な持続に我慢できなくなって、ナチスのような「強力政治」の実現による一挙解決を待望しはじめる。しかし、その一挙解決は、速やかに中国と講和すべきである、という方向ではなかった。
 昭和十五年ごろの日本人は生活に苦しんでいたし、不満であった。その不満の大爆発を抑えていたのは、勝てる戦争・正義の戦争(聖戦)であるからという民衆の戦争観と、明らかにつぎの新しい戦争にたいする期待感によっていた。つまり対米英戦争にたいしては、戦争勃発前からすでに、マスコミの宣伝のほかに、直接的な日常の対人接触によって、ある種の雰囲気が日本全体に生まれていた。戦争を望む心理、あるいは好戦的風潮といってもよい。一致団結して大いなる国難に当ろう」といった自己叱咤の感情や、解決のメドのない日中戦争への諦めが、未来をおびやかす“仮想敵”にたいする憎悪とあいまって、大きな国民感情の流れを形成していた。

 フランスの社会心理学者ルーボンは『群衆心理』(創元文庫)という名著を、十九世紀末に書いているが、かれはいう。
 「群衆の最も大きな特色はつぎの点にある。それを構成する個々の人の種類を問わず、また、かれらの生活様式や職業や性格や知能の異同を問わず、その個人個人が集まって群衆になったというだけで集団精神をもつようになり、そのおかけで、個人でいるのとはまったく別の感じ方や考え方や行動をする」
 そして群衆の特色を、かれは鋭く定義しているーー衝動的で、動揺しやすく、昂奮しやすく、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる、と。そして群衆の感情は誇張的で、単純であり、偏狭さと保守的傾向をもっている、と。
 昭和十五年から開戦への道程における日本人の、新しい戦争を期待する国民感情の流れとは、ルーボンのいうそのままといっていいような気がする。それもそのときの政府や軍部が冷静な計算で操作していったというようなものではない。日本にはヒトラーのような独裁者もいなかったし、強力で狡猾なファシストもいなかった。民衆と不可分の形でリーダーも群衆のひとりであり、民衆のうちにある感情を受容しそれを反映する場合にのみ、リーダーは民衆を左右できたのである。山本五十六は、負けるとわかっているから、対米英戦争には反対であった。しかし、民衆のいやがっている方向には動かせないどころか、かれもまた、民衆の中にすでに存在している好戦的心理に一部では流されていた。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃成功の日の日本人の熱狂は、その端的なあらわれであったのである。たとえば作家の長与善郎は「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えるとは思わなかった」と書き、詩人の高村光太郎は「私は不覚にも落涙した」と感激し、社会学者の清水幾太郎は後日その感想を記した。「日本は是が非でも英米に勝たねばならぬ。そのためには吾々の文化が彼等の文化に勝たねばならぬ。併し文化はただビルディングや洋服にのみ関することではない。それは根本に於て国民の心の力を養うことであり、また心の力それ自らである」

 こうして、開戦後の国民感情を危惧していた内務省保安課が、国民はただ戦果に酔うており、このため「挙国一致体制益々強化せられたる感深し」「何等異常認められず、治安に不安なし」と誇ることができるほど、群衆は熱狂していたのである。

 この歴史的な教訓からみると、ヒステリー的な国民感情の激発と無縁になった昨今の社会状況は、歓迎されることこそあれ、非難されるべきなにものもないのかもしれない。
といっても、この天下泰平・五穀豊穣の平穏はついこのあいだのことなのである。わずか二十年とちょっと、時代と人心の変りようはただ目を見張るばかり。「戦後」という一時期を考えてみれば、国家再建という理想求めて、それは明治・大正に戻ったかのような国民的熱狂をわれわれはしばしば体験した。ある意味では、新しい国造りのためのキシミともいうべきものであったが……。大は2・Iスト、メーデー事件、内灘・砂川闘争、六〇年安保騒動などから、小はうたごえ運動、山谷・釜ヶ崎暴動と、昭和史年表から求めることはあまりに容易すぎる。
 それがこの二十年ほとんど失せた。ひたすら野球場やラグビー場に大歓声をあげるだけで、あの熱狂的な日本人はどこへいったのか。“群衆”は消えてしまったのか。
 世界一の金持ち、なべてコトもなき泰平爛熟期、ちょっと働けば食うにこと欠かない。
と同時に、個人は歯車の一つとしてしっかり組みこまれて、身動きならぬほど完整した体制。シラケの時代。自分を守ることしか関心がない。あるのはすこぶる個人的な、ちょっぴり不満で、ちょっぴり苦痛な状況……。
 識者はそうした現代日本像(または日本人論)をさまざまに分析している。木村尚三郎氏(東大教授)は世阿弥の『風姿花伝』のなかの「男時・女時」という言葉を使って、現代は女時の時代であるという。優美で保守的な女の感情が支配し、気持は世界から国家、仕事、家族へ、そして最終的には自己自身の肉体へ、内へ内へ」と向かっている時代で、「情感によって結び合う生き方」が中心で、「原理・原則に捉われず、具体的現実のなかにあって、あくまできめ細かく、肌になじむ、温か味のある生き方を求めるディテイル(部分)人間」中心の時代である、と説いている。
 小山晋氏(筑波大教授)は、アメリカの歴史家C・ラッシュ 『ナルシシズムの時代』を援用しつつ、日本の若ものもまた「自惚れの鏡の人間」になっていると指摘していう。
二十年前の大学紛争が、一度弾圧されたらたちまち鎮まってしまったのも、すでにかれらがナルシシスト的傾向をもっていたからである、と。その傾向はますます強まり、いまは、組織への忠誠よりも個人生活のほうが重要と考える人間か、立身出世を望むにせよ自己犠牲的に働く人間はなくなり「常に賞讃の言葉をかけて注日してやらないと、ドロップ・アウトしてしまう」人間か、この二つのタイプにこれからの若ものは二極分解していく。
 すべて幼いときから抑制されることのない過保護と躾の欠如に囚があり、こういう人びとは自己の重要性についての誇大観念(他人もそれ認めるべきと思いこみ)と、自分の無限の力と成功について幻想をもちつづける、と小田氏は慨嘆的にいうのである。
 同じようなことを「母子家庭国家」としてみる心理学者もいる。竹内靖雄氏(成蹊大教授)で、氏は「政府が母親で国民が子供、という構造の国家」と見、日本の江戸時代がまさにそれで、昭和二十年までの近代日本はそれを無理に男性型国家に性転換しようとしたところに間違いがあった、とする。そして本来のは母子家庭国家の生き方に戻ることができたところに、戦後日本の成功があった、と現状をむしろ肯定的に論ずるのである。
 陶酔的な自己中心のディテイル人間で、しかも母子家庭的な民主主義国家の子供たちということであっては、いまの日本人が福祉そのほか自分の身に関係したことにしか関心なく、できるだけ少なく支払ってできるだけ多くを要求しようとする「甘えの構造」的になるのは、当然のことであろう。母親は母親で、子供の機嫌をそこねてはいけないし、子供の支持を失わないためには、多くのサービスを与えてご機嫌をとらねばならない。政治家も民衆ももちつもたれつ。これでは改革もへちまもあったものではあるまい。
 駅のホームのごみ箱を、老いも若きも関係なく、かっこうのいい紳士淑女があさって、新聞や週刊誌をひろっている光景をしばしば見かける。しかも今日では何とも思わぬほど自然になってきた。笑ってはいられないのは、この恥も外聞もない拾い屋個人主義が、すでに社会の各方面の多くのところに瀰漫していることである。戦後の民主主義教育が、熱狂する群衆精神を否定しきって、かわりに拾い屋精神を育成したとは、いくらなんでも思いたくはない。
 さらにもう一つ問題にしなければならないのは、日本国内的にみれば。“ひよわな個人”的な日本人であるが、これを外の世界からみれば、まったく別種の強い日本人たちと映じていること。たとえば戦争中に武力でアジア諸地域を侵略していった日本人の心理と、戦後たちまち経済力で同じ諸地域へ進出している日本人(旅行者を含めてもよい)の心理と、深いところでいくばくの差がありや、と外の人はみているのである。いぜんとして集団主義の日本人! 欧米諸国民にとっても恐らく同様であろう。日本人は相変らず巨大なマスとなって外へ押し寄せている。

 心理学者は、自尊心など所詮は幻想にすぎない、という。そして自尊の幻想が崩され、おのれの無力さがさらけだされると怒りが生じる、ともいう。自己の重要性について誇大観念をもち、自分の無限の力と成功について幻想をもつ現代日本人が、いくら優美で肌になじむ感情を好むとはいえ、怒りそのものを失ったとは思えない。げんに、ごくごく個人的なことで狂暴性を発揮する若ものの例は、新聞紙面を毎日のように賑やかにしている。
 もし、この個人的なヒステリー的な怒りがまとまったら……破片のような一人ひとりが、それこそ山本五十六のいう「衆愚の」集団主義で一つにならないという保証は将来ともにない。朝夕の駅や街頭や車中で、巨大な群衆がうごめいているのを毎日のように実見する。
日本人は無意識であろうと群衆訓練を日常的に行っている。バラバラではあるが、“群衆”は決して消え去っていない、という気がしてくる。いまもし戦前のような、政治性をもっか軍部が存在していたら、「腐敗一掃」をとなえる軍事クーデターがきっと起っていたことであろうと思いたくなる。
 ずいぶん前に、群衆の動きを研究している人から、面白い話を聞いたことがある。
 その人によれば、物理的に、群衆の混雑の度合を密度(人/平方メートル)であらわすという。一平方メートル六人はちょうどエレベーターの定貝の標準。(十二人用なら面積は二平方メートルということになる)。この六人定員が八人になっても新聞が読める、落し物も探せる。十人になると四囲から体圧が加わる。手のあげさげもままならなくなる。十二人では悲鳴があがる。十四人になると災害の一歩手前ということになるそうな。
 そして、物理的な群衆論は、実はそのまま群衆心理へと使えるのである。事実、ヒトラーの「マイン・カンプ」はその手法を手品のように明かしている。群衆密度が高まると理性か弱くなり、感情が昂ぶってくる。疲労や空腹が加わると傾向はいっそう強まる。ヒトラーはそこをねらった。演説は夕方をえらぶ。そして親衛隊により前後から聴衆を圧迫し、群衆密度を高めた。そこに火のような感動的な名セリフを叩きこんでいった。
 ヒトラーは、明らかに人間は加工されやすい憐れな動物であることを見抜いていたのである。物理的に、そして心理的に圧力をかけて群衆密度をあげていくことで成功した。恐らくかれのような天才的アジテイターがいまの日本にいれば、訓練のない幼児のような一人ひとりの人間を群衆化することなど、お茶の子さいさいであろう、と思うのである(幸いに宰相までが今日的で、到底その能力のないことを慶びとしよう)。
 歴史に学べば容易にわかることであるが、国家の避けがたい老朽化の前兆は、常に、民族の精神の支柱となっていた理想の衰微ということである。われわれはその例を山ほどみている。理想が光を失うにつれて、活気づけられていた政治的、社会的、文化的なあらゆる基盤がゆるぎはじめるのである。そして理想が消滅するにしたがって、民族は団結と統一とエネルギーの源泉となっていたものをどんどん失っていく。民族としての集団的な利己心は、極皮に発達した個人的な利己心にとってかわられ、気力の減退と行動能力の低下とがそれにともなってくる。
 大国はこうやって滅亡へ突き進んでいった。それが歴史の教訓というものである。つまり国家はもはや孤立した個人の集合にすぎなくなってしまう。辛うじて伝統や習俗によって、人為的になおしばらくは集合して結びついているが、やがてそれぞれの利害関係や幻想によって、ばらばらに分裂しはじめる。そして滅亡ヘーー。
 現代の日本の状況はまさにそれ、と悲壮がっているわけではない。でも、なにやら似ているところがあるのではあるまいか。そう思う。

 そして、より危険なのは、そこまでになると、かえって人びとはごく些少な行動までも指導されることを求めはじめる、ということ。人びとは、「群衆の知的作用は個人のそれよりもおとるかもしれないが、その道徳的・建設的態度は個人の水準をはるかにしのぐ」
といった悪魔的なささやきに耳をかたむけていく……。
 いまの日本の政治的危機は、単に自民党解体の危機だけですむことではなく、政党全体の危機でもある。政党の凋落は、“官僚”制の強化につながることは、歴史の教訓でもある。ここでいう官僚とは汚濁した個々の高級官僚をいうのではなく、制度としての官僚である。これに政党内部の「革新」「改造」「刷新」をとなえる勢力とが巧妙に結びつくと、それは昭和十年代のいつか来た道となるであろう。これまた日本の近代史が生きた教訓をわれわれに残している。
 こう考えてくると、山本五十六ではないが、世はなべてコトもなしを手放しで慶賀してばかりもいられず、いまや時代のかわり目、これからの国論(衆愚の)はいずれに向くや、いささか心配になってくる。



半藤氏の30年前の心配は当たってしまった!
・・・・それは昭和十年代のいつか来た道・・・・・・

役者はそろっている・・・
コンプレックスの塊のようなリーダー
エリート意識しかない官僚
金儲けしか考えない資本家
プロパガンダに自己陶酔するマスコミ

となると、諦めるしかないんだろう、、、





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