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金子光晴の「海」?

島崎藤村は、コロンボ出航後、夜のインド洋を旅行記『海へ』に書き表した。
それは、まるで、『海』を、これから自分が訪れるヨーロッパ、かつ、その後の自分の人生にたとえているようにも見える。




『海へ』島崎藤村著

日の光はアフリカの海に満ちていた。
人を避けて私は海を見に行った。
一切を忘れさせるものは海だ。
躍れ。躍れ。海よ、踊れ。
舵に近く白い大きな花輪を見るようなのは、われわれの船から起す波の泡であった。
たちまち、その泡が近い波の上へ広がって行って、星のように散り乱れて、やがて痕跡(あとかた)も無く消えて行った。
私は遠く青く光る海のかなたに、無数の魚の群かとも思われる波の動揺をも認めた。
条理もなく、筋道もない海。
先蹤(せんしょう)もなく、標柱もない海。
豊富で、しかも捉えることの出来ないような海。
何処を出発駅とも、何処を結末とも言い難いような海。
私の眼に映るものは唯、日の光りであった。
波の背に反射する影であった。
藍色の波の上に浮き揚って、やがて消えて行く泡であった。
波と波と相撃って時々揚がる水煙であった。
光と、熱と、波とは殆んど一つに溶け合って、私は自分の身体までその中へ吸われて行く思いをした。
大船の心安さ。
私は波打際の砂の上に身を置くような海から離れた心持をもって、しかも岸から窺うことの出来ない海の懐をまのあたりに近く見て行った。
巻きつつある。
開きつつある。
湧きつつある。
起こりつつある。
奔りつつある。
放ちつつある。
延びつつある。
狂ひつつある。
乱れつつある。
競ひつつある。
溢れつつある。
醸しつつある。
流れつつある。
止りつつある。
転びつつある。
陥りつつある。
渦巻きつつある。
波は波の中に滑り入りつつある。
揺れつつある。
震へつつある。
触れつつある。
撃ち合いつつある。
混り合いつつある。
逆立ちつつある。
連なりつつある。
績きつつある。
われとわがみをほしいままにしつつある。
長い廊下のような甲板から眺めると、すこし斜めに成った欄(てすり)の線があたかも遠い水平線と擦れ擦れにあって、あるいは水平線の方が高くなったり、あるいは欄の線の方が高くなったりするように見えた。
どうかすると、青い深い海はその板の間まで這上って来るようにも見えたーーー波の動揺に身を任せていた私の直ぐ足許まで。




島崎藤村と同じ航路を、約15年後、詩人・金子光晴がゆく。
コロンボ出航後を、『ねむれ巴里』より抜粋する。
それは、彼の性格をよくあらわしている。
長い船旅のはずだが、「海」についてほとんど記載していない。


・・・・・・・・・・・・・・・
この船は日本船で、乗客、スタッフも日本人が多かった。
光晴は、当初、当然のごとく、8人用の日本人部屋にいた。暇にまかせて日本人たちが猥談ばかりするので、嫌気がさして、同じく8人部屋の中国人留学生の部屋に移っていったのである。カップル2組らしきこの中国人留学生は、そこに異物のように現れた光晴にびっくりし、嫌悪感を抱いたようであるが、しだいに、仲良しになった。




『ねむれ巴里』金子光晴著より

・・・・・・・・・・・・・船にかえると、僕たちを待っていたように船は出帆した。
海の牧草のみどりを船は、十八ノットの速力で進んだ。
波がながい舌で、船側の鉄板をなめて過ぎる。
朝はとび魚、夕は、海豚の群が船を追う。
船室にかえると、中国人留学生たちが上陸して、郷土とゆかりの親戚、友人の家でたらふくのみ食いして戻ってきた吐虐に似た臭気で空気がよごれたパレットのように、ごてごてに塗りたくられていた。
名状できない人間の濃い臭いのなかに、一すじ酷酸のような強いにおいがまじって鼻腔を刺戟すると立てつづけに大きなくさめが出た。
植物園で案内人が教えたあの莢の臭気であった。
謝女史がフィアンセと一つの框のなかに、からだをつめこんで眠っていた。
陳氏と譚嬢は、相変わらずはなればなれで、どちらもシャツ一枚でねていた。
彼女を追いかけて廻りながら、遂に、途中で眠りこんでしまったものらしい。
譚嬢の上着がたくしあがって、みぞおちの辺が裸になっていた。
全体の肌のいろがずずぐろかった。五胡十六国のむかしから、むちゃくちゃに混血していまの支那人ができたのにちがいないが、譚嬢は、漢民族や、鮮卑、匈奴でもなく、荊蛮の黒土のなかから抜け出した泥濘の子にちがいない、と僕は、わかりもしないことを空想していた。
日本ならば、坂東うまれの糞土から出てきた女に似ているが、琉球の娘や、アイヌの子から、表情のきついところを抜いたようでもあった。
譚嬢のむきだしの腹は、灼けた焙烙のような火いろで透いていた。
その腹のふくらみは、意外にやさしく、犬の子でも入っているのにふさわしいかった。
陳君は、滑稽にもあわれなしまりない表情をして眠りこけていた。
譚嬢はともかく、神経質な謝女史がみたら、どんなに蔑んだ眼をすることだろうーーーだが、それは、日本人のみた感想で、中国の同郷のよしみはそんなものでなく、四人の郷党がこころを一つにして出てきた彼らのあいだの感情には、我々薄情な日本人には、到底想像できない、木組みの喰いあわせのように、押しも、引くもならないものがあるようにもみえる。
汗と脂でくろずんだ男女の裸出部をながめているうちに、極限状態にあった僕は、その泥絵の空間に、つづけさまに射出した。
射出されたものは、どこへいったかわからない。
三千由旬もたかく飛んで、兜率天(とそつてん)まであがっていったかもしれない。
もっと大きな虚無が口をひらいてのみこんでしまったようでもある。
案外、部屋のどこかのペンキいちめんの天井の鉄板の締め釘にぶつかって、そこからおもく垂れさがって、ベッドから上半身をのりだして正体もなく涎(よだれ)をながして眠っている謝女史の白いのどから胸元のあたりにいまもしたたり落ちようとしているかもしれない。
 なににせよ、四人の留学生は、二十代だし、僕だって、三十歳になったばかりのことである。
人生には、どんなに話の合わない、困ってもどうしようもない、おかしなことが、踵をついで起ったとしても、しかたがないというものだ。


・・・・・・・・・・・ 深夜、寝しずまった人たちのあいだで一人眼をさました僕は、しびれたように頭を持ちあげ、掛梯子をつたって下におりると、ふらふらしながら船室に立った。
からだが伸びちぢみするひどい動揺であった。
僕の寝ている下の藁布団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。
船に馴れて、船酔いに苦しんでいるものはなかった。
僕は、からだをかがみこむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。
じっとりとからだが汗ばんでいた。
腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。
その手を引きぬいて、指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変わらない、強い糞臭がした。
同糞同臭だとおもうと、「お手々つなげば、世界は一つ」というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされて、可笑しかった。

(読みやすいように段落をつけていますのでご容赦ください)



私が、旅人として最も敬愛する詩人・金子光晴は、島崎藤村より約15年遅れて1929年、船でヨーロッパに渡る(2回目)。
たった15年の違いだが、この時期の15年はかなりのものではなかったのではないだろうか。
藤村がヨーロッパに滞在した大正初期は、まだ、日本は明治人気質を残した発展途上の国であった。第一次世界大戦(1914~1918年)も英国やフランスという連合国側についていた。
金子光晴が洋行した1929年(昭和4年)は、大正デモクラシーという平和ボケした浮かれた社会が関東大震災(1923年)と世界恐慌(1929年)によって一瞬にして下降線へ向った時代である。対外的にも欧米に対抗すべくアジアに侵略的覇権の触手を伸ばし始めた時期でもあり、世界中で対日感情が悪化していくのである。(1928年張作霖爆殺事件、1931年満州事変、1932年上海事変へと)

藤村と光晴は、年齢こそ違うが同時代を生きている。しかし、ほとんど接触したことがないのではないだろうか。
金子光晴は全く売れない詩人であるのに比べて、島崎藤村は文豪である。
また、金子にとって、藤村の自然主義など、鼻持ちならなかったのではないだろうか。
きっと、性格は水と油ぐらい違うだろう。それは、2人の旅行記に現れている気がする。

光晴は、いつも極限の状態である。
電車が来ているのに、プラットホームのギリギリ端を歩いているのだ。
それに比べて、藤村は、黄色い線の内側を常に歩いているような感じだ。


唯一の接点は、光晴がパリで生きるために、詐欺まがいのことをした相手が、たまたま藤村の留学中の息子・鶏二君だったことぐらいか・・・


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