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どうなる?中東

昔、バスに乗って中近東を旅した。

Wadi Ram1

中近東は、鉄道網はあまり整備されていないので、バスがもっともポピュラーな乗物であった。
長距離の路線バスに乗ると、アラブじゅうの老若男女と出会う。一番多い者は、出稼ぎの行き帰りの若者男子である。私のようなひとり者が一番に声をかけてもらえる現地人はこういう人たちであった。

最初は、皆同じに見えていたアラブ人も、長いあいだ一緒にいると、いろんなものが見えてきた。
こういうバスで、一番偉そうにしていたのが、サウジアラビアなどの湾岸の産油国の若者であった。同じアラブ人でもこの人たちは色が黒いのですぐわかる。バスの中まで持ち込んだ自分のプレーヤーで、音量いっぱいに音楽を聞きながら、前の座席に足をのせ、木の実のようなものを食べてはその殻をあっちこっちに吐き出していた。本人は至って上機嫌で悪いヤツには見えないが、「こいつ、脳みそあるのか?」と思っていたら、後々、他の国々の若者たちも皆、嫌っていることがわかった。
「カネは持っている、しかし、あのあたりのヤツは嫌なヤツが多い・・・」と、リビアの若者が言った。

tea1.jpg

しかし、バスが休憩所の茶屋に立ち寄ると、皆、この嫌われ成金の周りに集まって、チャイをすする。異人種である私もこのときは呼ばれる。このサウジ人以外は物静かである。再びバスに乗車する声があり、チャイのお金を払おうとすると、そばにいたリビア人が目で「必要ないよ」と合図した。すべては、成金サウジ人の若者が払うようだ。イスラムの社会では、こういう場で一番お金を持っている者がおごるのが当然の慣わしらしい。

私に声をかけ優しくしてくれるリビア人だが、どうも他のアラブ人からは低く見られているようだった。私からすれば、カダフィー大佐のリビアといえば、アラブの英雄ではないのか!と思っていたので、意外であった。カダフィーは、石油を武器に欧米と激しくやりあった男である。その国の若者が、今ヨーロッパの出稼ぎから帰るところだ。他のアラブ人もリビア人のことを尊敬しているのではないかと思っていたが、エジプト人などは、露骨に見下したような態度であった。エジプト人にとっては、リビア人は田舎者らしい。

そのエジプト人は、アラブでは最も進歩的と思われているようだ。アラブでは、アラビア語のエジプト方言が標準語のように扱われている。それは、エジプトがアラブ文化の中心という意味でもある。エジプトの音楽や映画がアラブ諸国の娯楽なのだ。中国語といっても、上海語と広東語では通じないように、アラビア語も西と東ではまったく通じないのだ。

また、エジプト人と同じように一目置かれていたのは、シリア人であった。ただ、シリア人はエジプト人より色が白く物静かであった。このシリア人とよく話していたのが、チュニジアの若者である。この2人の話している姿をみていると、今風のヨーロッパの若者が会話しているようにみえた。両国ともフランスの委任を受けたので、雰囲気もフランス人のように見えたのだろうか?

わたしは、このような人たちを見ながら、自分なりにアラブの地政学を考えていた。考えたというより退屈だから妄想にふけっていたというほうがよいかもしれない。
それは、第3次、第4次の中東戦争のことを・・・・
どちらの戦争も、エジプトとシリアが手を組んでイスラエルと戦った。
1967年の第3次は、エジプトの英雄ナセルとシリアが手を組んだが、なんと情けないことに、6日間で負けてしまった。
1973年の第4次は、エジプトはナセルが急死し副大統領のサダト、シリアはバース党のアサド、そして、直接参戦しなかったがサウジ国王ファイサルが意を決してOPECの石油禁輸を主導してくれた。そのおかげか、アラブ勢は、第1次以来、はじめてイスラエルに痛手を負わせることができた。勝負としては最終的に五分五分だったが、それでも、アラブにとっては一矢報いたという想いであったであろう。

私はバスに乗りながら、やはり、中東戦争よろしく、エジプト、シリア、サウジの声が大きいのか?と感じ入っていた。カネはないけど声の大きいエジプト人、カネも声もないけど、信条の強そうなシリア人、とにかくカネの力を見せ付けるサウジアラビア人・・・・・・・・・

アラブ人が「勝利」と今でも唯一自慢する第4次中東戦争後、エジプトのサダトはアメリカとの和平交渉をきっかけに、新米的になったいった。シリアは今までどおりバース党の理念、社会主義、アラブ主義的である。

かたやエジプトは親米、かたやシリアは親ソ、ナセルの築いたアラブ主義という名のアラブ連合体(エジプトとシリア)は、大国の思惑のまえで、風前のともし火となってしまった。サウジアラビアも一過性の反米という花火で終わった。それから現在まで、アラブ社会でもっとも従順なアメリカのポチとなってしまった。

「イスラム」ではなく「アラブ人」という名のもとに集結したはずであった。しかし、アメリカのぶら下げるカネと自由は、戦争で疲弊した国々に多幸感を与え「アラブの連帯」をうまく引き裂いていった。その多幸感がそのうち骨や脳みそまで溶かしてしまうとは知らずに・・・・

1979年、半分脳みそまで溶かされた国イランが、あぶないところで、エジプトのムバラクのように米国の庇護のもと私腹を肥やしていたパーレビ国王を、米国へ追い出し、どうにか自主を回復した。そして「イスラム」という名の下に新たな国家づくりをおこなった。
イランの勇気は、「アラブ」の枠をこえ、「イスラム」という名で、あらたに、シリアとの協力関係を生み出した。シリアではキリスト教徒も多く見かけるのだが、多数派はイスラム「スンニ派」だ。イランは、イスラム「シーア派」である。もともとこの2派は特に仲が悪いはずだが、シリアではその枠を超えた(イランは1979年の革命後、スンニ派のアフガン人も保護している)。この枠の中なら、トルコ系、ペルシア系イスラム教徒も入ってこれる。

そして、今まさに、エジプトが揺れている。
あの1973年、第4次中東戦争の英雄だったムバラクは完全に変節してしまった。
彼を追い出し、市民それぞれが威信を取り戻そうとしている。
エジプトが自立し威信を取り戻した暁には、長い間離れ離れになっていた兄弟シリアと再び強調していくことが考えられる。
この2カ国が手を結べば、中東は一つにまとまる。
それぐらい、今回のエジプトの政変は大きいのではないか。

そして、湾岸の国でも、市民デモが現体制を大きく揺るがしている。
バーレーン、イエメン・・・・・

Bahrain Protests1

もし、サウジアラビアにこの市民デモが飛び火するようなことがあれば、中東の国際情勢は一気に変わって行くのではないだろうか?


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