Home *  * All archives

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
tb: -- |  cm: --
go page top

遺跡の落書

 わたしは、以前ブログで、イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書をした女子大生について、下記のようなことを書いた。

  2年前イタリア、フィレンツェの大聖堂に落書きし記念写真を撮っていた女子大生たちが、よい例である。このようなことを非常識と認識できない「礼儀の貧弱さ」は、社会学的にみれば、一短大生の私事で済まされる問題ではないであろう。


 普通ならもっと節度をもって落書きをするのではないか?という意味で私は書いたつもりであった。
 こんなに堂々と学校名と名前を書いて何とも思わなかった礼儀の貧弱さに呆れたのである。
 だから慇懃鄭重の心をわきまえた昔の人たちの道徳をもう一度かみしめるべきではないかと。

 しかし、もしかしたら、これは私の勘違いかもしれない。

 昔の人も、堂々と落書をしていた。
 しかも、恥じる様子もなく!

 『アンコール・ワット』深作光貞著 角川文庫(1965年)より

  アンコール・ワットの回廊の柱々には、じつに落書が多い。
 はるばると苦労してここまで来た、すばらしいものを見ることができた、という二つの気持ちが、自分の名を落書で記録しておこうとさせるのであろう。だから、公衆便所の不真面目なもの、キャンプ場の樹の幹のハート型の落書とはちがって、もっと真剣で荘厳な落書である。だから書いてあるものも署名と日付が大部分である。さし絵入りのものは、ひとつもない。石の大殿堂の厳しさは、絵などを書く余裕を与えないの フランス語、英語、、サンスクリット系の文字、横文字、漢字、日本字・・・年々この落書が増える一方なので、美術建築物の美観を損なわないため、アソコール管理者は、それを消して歩いている。しかし、堂々として立派な落書のいくつかは、とくに指定して消さないことにしている。一種の文化財保護扱いを受けているのだ。
その択ばれたもののなかに日本人の落書がある。
寛永九年正月に来た森本右近太夫のそれである。
日本人の落書はこれだけでなく、「日本肥後国木原置嘉右衛門 慶長拾七年七月拾・・・」など、かつて日本人のものと思われるものが、十二もあったそうである。しかしこれらには、すでに消されて残っていないものが多い。
森本右近太夫の落書が択ばれた点は、四角の柱の一面を幅いっぱいに使ってじつに堂々十二行にわたって書いていること、台の上に乗って書いたものと思われるほど高いところに書いたために、その上になぞった他の落書が混っていないこと・・・などである。
こそこそした落書は邪鹿であるが、これほど堂々としてしまうと、また墨痕あざやかにしたためられると、消すほうもシャッポを脱いでしまうのだ。

 寛永九年正月初而此所来 生国日本
 肥州之住人藤原之朝臣森本右近大夫
 一房御堂心数千里之海上渡 一念
 之儀念生々世々娑婆浮世之思清者也
 為其仏四躰立奉物也
 摂州北西池田之住人森本右儀太夫
 右実名一吉 善魂道仙土為娑婆
 是書物也
   寛永九年正月卅日


 三百年を経過しているので、さすがにかすれた文字もある。たとえば日付の寛永九年正月卅日の「卅」は、右の方が消えかかり、「廿」とも 「七」とも読める。(藤原通夫氏は著書『アンコール・ワット』 で 「廿日」、梅棹忠夫氏は著書『東南アジア紀行』で「七日」としているが、「卅日」であることは、後ほど述べる)。
 とにかく寛永九年(1632)に、肥後加藤清正家の家臣森本右近太夫が、父儀太夫の菩提をとむらい、老母の後生を祈るために、はるばる数千里の海上を渡って、ここアンコール・ワットに詣で、仏像四体を献じたことを誌してある。
森本右近太夫は、くどいくらい用心ぶかい性格であったようだ。回廊にもあるこの落書だけでは安心できなかったのか、境内の隅に孤立した左側の経蔵入口にも、第二の落書を残した。この孤立した経蔵には、他の落書がいっさいない。現在、ここを訪れる見物人でも、ほとんど誰も覗いてもみない建物なのである。人気のないここで右近太夫も楽な気持ちになったのであろう、片ヒザついて筆をもった高さに書いてある。(石面の損傷で読めない部分もあるが)。

・・・・・・・・・・・・・
 肥州之住人藤原之朝臣森本右近・・・・
 一房御堂心数千里之海上渡・・・・
 之疑念告世々娑婆世之思清
 者也  仏四躰立奉
   寛永九 正月卅

と、この方が文章が簡略であるから、予備用として書いたものであろうか。(この第二の落書で、参詣の日付は「廿日」でも「七日」でもなく、「卅日」であったことがわかる)。
 この森本右近太夫のように、くどいほど用心ぷかい人ばかりがいたとは思えない。落書をしなかった日本人もいたであろうし、落書はしたが謙虚なものであったため、スコールや人の手、また「時の流れ」で消されてしまったものも多いであろう。署名を残す意志はあったが、筆を持参せず、残念ながらあきらめたり、小石を拾ってそれで書いた人もいたであろう。最近まで残っていた日本人の落書は、前述のように十二あったが、実際はもっと多くの日本人が、来ていたのである。それも主として慶長・寛永の頃の日付の落書が、圧倒的に多いから、その時代がアンコール詣でブームであったようだ。


 この本は、1965年発行だから、カンボジア内戦の前である。
 内戦中、アンコール・ワットはクメールルージュの支配地域だった。鎖国状態で世界中の研究者たちがアンコールワットがどのような状態に置かれているのか心配していた。そのスクープ写真を狙ってタイ国境から潜入した戦場カメラマン・一之瀬泰造は、1973年クメールルージュによって殺された。

ichinose[1]

 戦後、再び世にその姿をあらわしたアンコールワットは見るも無残な肢体をさらけだしてしまった。
 クメールルージュは落書どころかあっちこっち鉄砲の弾を撃ち込んで破壊しまくっていた。
 ただ、幸運な?ことに1632年の森本右近太夫の落書きは一箇所だけ無事であった。

morimoto.jpg

 現在行なわれているクメールルージュを裁くためのカンボジア特別法廷だって、まさか彼らがアンコールワットをペンキで塗りたくったり銃創だらけにしたことを裁きはしないだろう。
 
 上記の著作で深作氏が言っているように、
 「・・・もっと真剣で荘厳な」、破壊だったのかもしれない。
 そうなると、フィレンツェの大聖堂に落書きした女子短大生も、「・・・もっと真剣で荘厳な落書である」可能性がある。
 わたしのようにコソッと書くほうが、卑怯なのかもしれない。





  
tb: 0 |  cm: 0
go page top

この記事に対するコメント

go page top

コメントの投稿

go page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://intouch.blog56.fc2.com/tb.php/469-3610ae8a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
go page top

新着記事+関連エントリー

カレンダー

カテゴリ

最新コメント

プロフィール

ブログ翻訳

旅行業の本

添乗に役立つ本

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。