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リストビヤンカの日本人墓地

ある『フォークソング愛好会』を連れてロシアへ行った。
『フォークソング愛好会』といっても、ボブ・ディランや吉田拓郎ではなく、地方や国々といった地元に伝わる民謡をこよなく愛するクラブである。だから、ほとんどのメンバーが中高年、昔「歌声喫茶」でロシア民謡をともに歌った仲間が多い。

飛行機がロシアのイルクーツクに到着しバスへ乗り換えると、さっそく団長の音頭とともにロシア民謡の合唱がはじまった。

りんごの花ほころび
川面(かわも)にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ

 
岸辺に立ちてうたう
カチューシャの歌
春風やさしく吹き
夢が湧くみ空よ


さあ~~もう一番!

ガイドとドライバーは大喜び!だったが、わたしは、これから何度もロシア民謡を聞かされるのかと思うと気が重くなった。

イルクーツクはシベリアの開拓史そのものの街である。
16世紀からはじまった毛皮の交易、デカブリストなどの囚人の流刑地として・・・・・
モンゴルの上方のバイカル湖から流れ出るアンガラ川の河口に生まれた人口60万の都市。
首都であるモスクワより日本に近く、以前は新潟から期間限定の定期航路があった。自家用車を船で送りウラジオストックからイルクーツクまでカードライブを楽しむという家族もいる。

メインの観光地は、海と見間違えるほど巨大な湖バイカルということになる。
紺碧の湖面。そこをプライベート用のクルージング船で遊覧する。夏でもさわやかな風がシベリアから原生林の隙間をぬって湖面にふきよせる。バイカル湖は縦に長い。
船のキャプテンに聞く。
「端まで何時間くらいかかりますか?」
キャプテンは指を3本出した。
「3時間?」
「3日間だ」
「・・・」

クルージングの帰り、昔使っていた蒸気機関車が放置?されているところに立ち寄った。
団員のなかに3名、元国鉄の職員がいた。
「ぜひ見たい」という。
長閑な雰囲気の緑生い茂る引込線に野ざらしで置いてある。
大きな蒸気機関車だった。
シベリア鉄道を牽引していたのだろうか?
とても大きく見える。
元機関士たちは、当時を思い出したのか、とてもうれしそうにその大きな蒸気機関車に走りより、抱きつき、機関室に駆け上り、息をはずませていた。
めずらしそうに眺めている私に、
ここに石炭が積んであってね、こうして、こんなふうに、入れるんだ!
側面の長い筒を何だろう?といじくっている私に、
石炭だけあってもだめなんだ、それは、水の流れる筒でね、
こっちに水が積んであるんだ、こうして、こうやって、水が流れて、はじめて、石炭は、動力になるんだ!・・・・・・
彼らのはなしを聞いているうちに、わたしはなぜか蒸気機関車というものが好きになってきた。

イルクーツクのホテルへ戻る途中で、団長からひとつ提案があった。
今回は、観光目的のツアーではあるがこの近くに、ロシアに抑留された日本兵たちのお墓があると聞いております。是非、一度、全員でお参りするというのはいかがでしょうか?

 異議を挟むものはいなかった。
その墓地はリストビヤンカというバイカル湖畔の小さな村にあった。なだからな坂を登っていく。自然の豊かな落着いた人家の奥に、日本人のお墓はあった。
りっぱな墓標と小さな墓石がきれいに手入れされた草木のなかに佇んでいた。
その静けさは、戦争がはるか昔のできごとと十分に想像させてくれた。

リストビヤンカ1

「八紘一宇」の大義名分のもとに侵攻した日本の世界戦争は、1945年、末期を向かえていた。遠くインドやオーストラリアまで進軍した南方戦線は壊滅状態であり、ほとんどの地域で空・海・地上での支配権を失っていた。4月には沖縄における地上戦、日本本土への空襲と、兵士だけでなく日本住民まで否応なしに戦火の恐怖におののくこととなった。
そんななか、日露戦争でロシアからぶんどってつくりあげた満州国では、戦地と離れていたせいか比較的平穏が保たれていた。ただ、王道楽土の夢を抱いた多くの開拓移民を抱える満州国でも、6月にヨーロッパ戦線終結したソ連がその兵力を日本との参戦にひかえて東方へ移動させるのではないかとの観測がながれ、開拓移民をふくめ多くの民間人が志願兵という名で、関東軍主軸の日本軍に参入させられていった。通常であれば、徴兵されない虚弱体質の者やかなり高齢の者までこの満州では初年兵として隊列に組みこまれていった。こういう者たちにとって古参兵の厳しい軍体質に耐えうることは並々ならぬことだったにちがいない。多くの自殺者や逃亡者まで出すに至った。

1945年8月9日、長崎に原爆が落とされたこの日、ソビエト軍の怒涛のような攻撃がはじまった。それは、歴然とした力の差だった。ヨーロッパ戦線ではアメリカ以上の総力でドイツを打ち砕いてきたソ連軍にとって、瀕死の寄集め日本軍などものの相手ではなかったのだろう。なにせ、日本軍はほとんど丸腰で重戦車に立ち向かおうとしていたらしい。ソ連はいっきにすべての支配権を確立し、日本軍は終戦になったことも知らず援軍を待ち続け戦闘を続行していた。ただ歴然とした力の差が逆に日本軍に無意味な玉砕を避けさせた大きな要因だったのかもしれない。

前線にいる兵士たちにも、9月に入ってからやっと日本の「無条件降伏」の伝令が届き武装解除がおこなわれた。ほとんどの兵士は敗戦の悲しみとともに、これでやっと家族のもとに帰れると喜んだはずだ。早く帰りたい!満州で徴兵を受けた多くの新兵は、妻や子を満州に残している。伝え聞く恨み辛みのつのった中国人、朝鮮人、ロシア人たちの日本人への仕返しは壮絶とのことだ。

こんな中、日本軍兵士の移動が始まった。
何キロにも渡る死の行軍、貨車にぎゅうぎゅう積めにされて何日にも渡るシベリアの移送。
「ダモイ(帰る)」とロシア兵士が何度も叫ぶ。
ロシア語を信じ一時喜んだ日本兵らは、その言葉のいく先々に収容所があり、ほんとうに粗末な食事と重労働が待ち受けていることに自分たちは捕虜になったんだとやっと理解する。

10月過ぎのシベリアはもうかなり寒い。また、この年は、戦争のため穀倉庫であるウクライナが壊滅的な被害を蒙りソ連国民でさえ食糧難であった。そのなかを戦争で疲弊した身体をひきずった日本人たちの抑留生活ははじまったのだった。

軍人、軍属、民間人あわせて日本人捕虜の数は、約60万人。収容所は、北はハバロフスク北方から西のウクライナまで約2000箇所に達した。現地で亡くなった抑留者約6万人。その多くは、最初の1年間、疫病、栄養失調、作業事故で死亡した。マイナス50度にもなる厳冬下の重労働と食料不足が彼らの体力を奪っていった。結核や肺炎となり、浮腫という栄養失調死を生み、意識集中できず機械に体を巻き込まれて死んでいった。

日本国の大東亜構想のひとつとして満州国の開拓に夢と希望を抱いて海を越えてやってきた日本人。農業に適さない土地と厳しい気候のなかで家族を養うために頑張ってきた。召集兵として日本軍の一兵卒とされ、鉄砲の持ち方のわからないまま最前線で「死」の恐怖と対峙させられ、捕虜として遠く過酷なシベリアでじゃがいも数個と引きかえに重労働を従事しなければならなくなった。身体が悲鳴をあげたとしても不思議でない。
死亡者の多くはこのような元民間人の初年兵であったのだ。

うちの近所にシベリア帰りのおじいさんがいる。
もう90歳を過ぎており耳も遠くかなりボケている。そんなおじいさんだが、シベリア時代の話だけは、流暢にロシア語をまじえてしゃべるのだ。
「ああ~たいへんだった・・・」というのだが、表情はなつかしそうに、遠くをみつめるように、しゃべるのだ。傍からみていると、まるで「良き想い出」のように感じるときがある。
わたしには、そのへんのところが不思議でならなかった。
過酷なシベリア、死と向かい合わされたシベリアではないのか?
ロシア人が憎くはないのか?
そのことを聞くと、急に耳が遠くなるのか、「ん?ん?あああ、憎い!憎い!ヤー・パルースキ・ニパニマーユ(ロシア語わかりません)」と言って笑うのだ。

私はこう思う。
日本は戦争に負けた・・・・
ソ連が満州から多くの日本兵をシベリアに連れて行き捕虜として重労働に従事させたことはあきらかに国際規約の違反だろう。
当時多くの兵士もそう思ったはずだ。
ただ、「負けたら仕方がないのだろう、日本も勝っているときは同じことをしていたんだから」という諦めも日本兵たちの間にはあったのではないか。
火事場泥棒のように勝ったソ連だが、勝者にはちがいない。従うのが道理だという意識があったのではないか。
否応なしにやってくる自分の過酷な運命を受け入れるしかなかった。

そして、その過酷な自分の運命の中でみたものは、「粗暴なロシア人」だけではなかった。
そう、そこで見たものは、もっと「粗暴で傲慢な日本帝国軍」だった!

シベリア抑留で死亡した多くの初年兵たちは、日本帝国軍に殺されたのだ。
初年兵たちは、ただ体力がないから労働に耐えられず早くに死んで行ったのではない。

終戦で解体したはずの日本帝国軍の階級制度を遠くシベリアの収容所でも振りかざし、自分たちは労働をせず食事を率先して優先する日本軍将校のせいで、初年兵たちは死んでいったのだ!
一番重い重労働に従事させられ、食事は将校たちの残り物を漁らされ、自分たちの気晴らしに暴力をふるう将校や下士官たち。初年兵らの持ち物の中から金目の物を奪い取り、ロシア人と交渉して食べ物や煙草と交換する崩壊した日本帝国軍人らが、いたずらに、初年兵の死者を増やしていったのだ。
本来、上官として責任をとるべき階級が、自分たちが生き残るために一番弱い末端の初年兵を見殺しにしたのだ。
いつの時代でも権威の守銭奴となった者は、良心と正義を棄ててまで自分や権威を守ろうとするようだ。
 イジメっ子の「自虐史観?」、イジメられっ子の「民主化運動?」、多くの名も無き兵士たちは草場のかげで苦笑いをしていることだろう。

リストビヤンカ3

リストビヤンカの空は青かった。空気はとてもさわやかだ。
ツアーの団員たちは、大きな墓標の前で手を合わせていた。
わたしは、小さな墓石に向かって手を合わせた。
・・・・・・・
死ななくていい命だったはずだ。
・・・・・・・
せめて唯一の幸せは、家族の夢をみながら死ねたことだろうか?

小さな墓石に手を合わせながら、わたしは、発見されず今だこのシベリアの大地のどこかにに眠っているだろう多くの抑留者の土塊にたいして「ご苦労さま」とつぶやいた。


夜霧のかなたに 別れを告げ
雄々しきますらお いでて行く
窓辺に瞬く ともしびに
尽きせぬ乙女の 愛の影

戦いに結ぶ 誓いの友
されど忘れ得ぬ 心の町
思い出の姿 今も胸に
いとしの乙女よ 祖国の灯よ



イルクーツクのホテルへもどるバスの中では、再びロシア民謡の合唱がはじまっていた。
いつのまにか私も歌っていた。
ドライバーもガイドも口ずさんでいた。


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