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立松和平氏死去

 作家の立松和平さん死去 小説「遠雷」、テレビで活躍
 立松和平氏が、2月8日亡くなった。
 62歳という若さで亡くなってしまった。

 作家ではあるが、彼の活動の原点は、「旅」にあると思う。
 現場まで赴き、身体を張りながら、読者へメッセージを送っていた。

*レバノン・ベイルート・東京レストラン
農村や大自然を歩いているイメージがあるが、こんなところにも行っていた。
ベイルート内戦の最前線で佇む立松和平氏が、一瞬映っている。



立松和平ホームページより
戦争とジャーナリズム



・・・・・・・お疲れ様、ありがとう・・・・・


戦争とジャーナリズム
戦争と立場
 戦場は恐ろしい。  1984年4月3日、私は激しく戦闘が行われているレバノンのベイルートにいた。その年の2月6日、イスラム反政府勢力は一斉蜂起をし、ベイルートに総攻撃をした。政府軍も反撃をし、6日間の市街戦で一般市民257人が死亡、900人が負傷した。ベイルートで市街戦が行われた2日間だけで、157人の一般市民が死亡、負傷は600人である。政府軍は死者22人、負傷者197人と公表しているが、反政府軍からの発表はない。その時、ベイルートには外国大使館も、外国報道機関も一切なかったのだ。
 当時の資料を引っぱりだして私は数字を引き写しているのだが、数字は数字であって、あの戦争の光や影やにおいなどはまったく写していないことに気づく。いつも、最も多く死ぬのは、武装していない一般市民だ。
 私がレバノンにいったのは、テレビ番組の特番をつくるためであった。戦場の日常をレポートするという、平和にまどろむ好奇心から発想された番組は、お茶の間の家族団欒(だんらん)の中に届けられることになる。そして、若い私自身も、未知への好奇心にみなぎっていたのだった。
 広河隆一「戦争とフォト・ジャーナリズム」には、ベトナム戦争の従軍記者の言葉が引用されている。
「ベトナム戦争にはどうしようもないほどの魔力があった。サイゴンで仕事をした経験のある記者は、誰でもこういう」
「ベトナム戦争を取材していたものにとって、戦場ほど面白いものは他にないんだ」
 こうして沢田教一も一之瀬泰造も、ベトナムやカンボジアの前線にカメラを持ってでかけていったのである。同時に彼らは、我が身を危険にさらすことによって、写真で「一発当てる」という山っ気があったことも、否定できないであろう。
 家族団欒の茶の間に届ける番組の制作であっても、前線に行けば頭を撃ち抜かれる危険がある。それでも喜びも悲しみも極限まで表現され、つまり人間が露わになった戦場は、結果的にまことに魅力的であった。
 私たちのレバノン撮影の先導役をつとめてくれたのは、広河隆一であった。その2年前の82年9月18日、広河はベイルートのパレスチナ難民キャンプの、サブラ・シャティーラ・キャンプにはいった。そこで広河か見たものは、イスラエル軍に包囲された中で、右派民兵組識によって行われたパレスチナ市民への虐殺だった。虐殺は継続中で、血はまだ乾いていなかった。広河は夢中でシャッターを切りつづけた。自分の命が危険なのも忘れて・・・・。
 そうして発表された写真は、世界中に探刻な大反響を巻き起こした。「それで世界は変わったか?」これが広河の今日でも抱きつづけている心の叫びだと思う。パレスチナ人は今も、失われた土地を求めて絶望的な闘いをつづけているではないか。カラシニコフでも戦闘機でも簡単に世界を変えることはできないが、あの衝撃的な写真は多くの人の魂を震撼(しんかん)させ、ゆるやかに世界を変えていく方向に向かわせたことを私は知っている。
一人の人間の意思を超えて
 たった1か月のレバノン取材でも、私は命の危険を感じたことが二度あった。ベイルートは西と東に分断され、グリーンラインと呼ばれる境界線は廃墟となった市街地である。廃墟の物陰に身を潜め、狙撃兵(スナイパー)は何時間でも敵が銃口の前に現れるのを待つ。兵士は壁の穴などを結ぶ兵士道(コマンドロード)をつくり、身を隠し狙撃をしつつ移動する。兵士が壁の小さな穴にカラシニコフの銃口をいれて乱射すると、間髪をいれずヒュンヒュンと返礼がある。熾烈な殺し合いの現場は、よそからは見えないものだ。
 そんな最前線で、お互いに会話をするように迫撃砲を撃ちあう。適当に撃つのだから、弾は何処に落ちるかわからない。私たちは毎日そこに通い、撮影を無事に終了させてその場所を離れた。山のほうの戦場にいって戻ってきて、通行証をもらうため、民兵の事務所にいった。そこで見せられたのは、爆弾によって壊れたテレビカメラだった。私たちがグリーンラインを去って数日後、国際的な通信社の現地クルーがやってきた。迫撃砲弾が落ちたのでそこを撮影にいくと、もう一発飛んできた。直撃弾となり、全員が死亡したとのことだ。スイッチを入れると、カメラはことことと音を立てて動いた。彼らの最後の映像がどんなものだったかは、確認できなかった。
 もう一度は、山の前線にいった時のことだ。その丘はくりかえし爆弾を受けたとみえ、高い木はなくて草も疎(まば)らだった。丘の頂の陣地に向かっていると、前方の兵士たちが伏せろ伏せろという。アルミのコーヒーカップを持って笑いながらいっているので、なんとなく安心であった。頂上に着こうとするところで、すぐ頭上で空気の裂ける鋭い音がして、視界の端に白い微かな線がよぎった。間髪をいれず丘の下のほうで爆発音があり、膝に地響きが伝わった。兵士たちは銃を取って土嚢(どのう)の陰に身構え、私は丸太で屋根までこしらえてある塹壕(ざんごう)に飛び込んだ。飛んできたのはミラン・ミサイル(注)で、あと3メートル低ければ命中するところだったと、兵士たちにいわれた。土嚢の隙間から覗くと、百メートル程先の対面の丘の頂に敵方の陣地が構築してあった。複雑に入り組んだ陣地と陣地の間の谷は、奈落だった。死ぬなよ、と私はそこにいる年若い兵士たちを見て思った。戦場に慣れない私たちは一瞬敵方に身をさらしてしまい、そこを狙われたのだ。
「頭が吹きとばされる最後の瞬間を撮ってやろうと思って、フォーカスをあわせていたんだがな」
 その場にいた広河は、ファインダーを覗いていたカメラを胸に戻していった。広河は私の不用意さをたしなめたのだ。もう少しのところで、私は生涯で最後の写真を残しそこなった。
 戦場でまわりの状況を冷静に判断するのは、よほどの経験がいる。最前線の兵士たちは、まるでたこ壷の中に身を屈(かが)めるようにして孤立している。戦況の全体などはわからず、とにかく銃口の前に現れた敵を撃つ。まして戦争の全体などは掌握できないのではないか。そんな孤絶したところに裸の命をさらしているのだ。
最前線に傍観者の立場はない
 ひとつの戦争はもちろん最前線だけではなく、銃後にも、もっと周辺にも、さらに国境を越えたところにも、限りなく離れたところまで広がりつづいている。そのどこに立つかで、当然ながら戦争を見る視点は変わってくる。
 戦争というのは、価値観と価値観の激しいぶつかりである。その点からいえば、少なくとも最前線では、どちらの側に立つかで世界の見え方はまったく変わる。レバノンでは私たちは左派イスラム教徒側にしかいなかったが、それで私たちの立場ははっきりとしたのだ。同じ番組の別のクルーは、右派キリスト教徒側にはいった。いかにもテレビ的な発想なのではあるが、私たちのクルーだけでは、レバノン戦争を一方側からしか語ることはできないのである。
 広河隆一はジャーナリズムの現場でのいわば歴戦の勇士である。「地雷を踏んだらサヨウナラ」といって、功名心を胸にカンボジアの最前線にいったきり帰ってこない若い一之瀬泰造とは違う。生き残って、一つ一つ学んできたからである。一之瀬にしても、最前線に、しかも可能ならば左派の側にいきたかったのだ。最前線では傍観者の立場はない。たとえジャーナリストの腕章をしているのだとしても、客観中立的な立場などないと私は思う。兵士たちがそれを許さない。
前航空幕僚長論文の底流
 戦争はたとえ正義の衣をまとっていようと、人間のする最大の犯罪である。それはあらゆるところに影響をおよぼす。遠く離れたところに位置しているようであっても、底流は必ずつながっているものだ。
 一つの例をのべれば、先の大戦について自衛隊の前航空幕僚長が書いた論文は、政府見解と異なるから免職に値いするというだけではない。戦争を賛美する意見が底流となって脈々と流れていて、その論文が回路を通して見せたように自衛隊は結局旧日本軍とつながっていることを明らかにしたということが、危険思想と見なされたのである。
「日本だけが侵略国家といわれる筋合いはない」
「日本は穏健な植民地統治をした」
 このような論は、前航空幕僚長がどのような人格の持ち主であるかにかかわらず、底流があるかぎりいずれ噴出してくる。またその底流を支える人たちが、政治家を含めて、またジャーナリストを含めて、必ず存在するということである。何故ならば、戦争は結局のところどちらかはっきりした立場に立つことを要求するからだ。
 最前線の兵士は、いつも敵の殺傷を狙っているし敵から狙われている。心の中にどんな善良な思いを抱いているかなど、究極的には関係ない。その善良な思いをすり減らしていかなければ、戦場で優秀な兵士にはなれない。それと同じように、戦争への一方の思いを、たとえそれが本心であっても、消さなければ、文民統制の自衛隊航空幕僚長にはなれないのだ。そして、前航空幕僚長は、自分に率直に一方の立場に立ったということを鮮明にしただけのことである。
 ジャーナリストも結局のところどちらかの立場に立たなければならないのだと、私は思う。心の中にある思いを抱いて現実のその場その場を生き抜くこともあるはずだが、それでも微妙に特定の立場にいるのである。
 旗色の濃淡はいろいろあるだろう。そうではあっても、色はどちらかに分けられるのだ。それが立場というものだろう。
 ベイルートのグリーンラインで迫撃弾を受けて爆死しても、レバノンの山地でミラン・ミサイルの攻撃を受け、また頭を撃ち抜かれて死んでも、私はその立場に立っているので仕方がなかったのだ。
 それが一人の人間の意思を超えた立場というものだろう。複雑な力学がはたらき、その力に翻弄されるジャーナリズムの現場でも、立場に立たなければならないということは同じだ。
ひろかわ・りゆういち 1943年生まれ。フォト.ジヤーナリスト。本誌編集長。67年から3年間イスラエルに滞在。帰国後、中東、核の取材を続ける。IOC国際報道写真大賞、土門拳賞など受賞。著書は「戦争とフォト・ジャーナリズム」ほか多数。
ディズジャパン2009年1月




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