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マジックバス 3

マジックバス1
『スパニッシュ・キャラバンを捜して』中上健次(新潮社)1986より

 インドからロンドンまで乗るマジックバスに乗っていて、その頼りにしていたバスの事故がなかったら、たぶん私はこのパキスタンのクエッタという町を永久に知らなかったに違いない。
 インドからロンドンまでのバス旅行はテレビのドキュメンタリー番組の企画だったから、番組が放送されて何人もの人から「あの事故はヤラセ?」と訊かれた。冗談ではない。双頭の蛇だとか、吸血コウモリだとか、「うわっ」「出タ」と驚く声ばかり目立つ川口浩タンケン隊ではありません。本当です。昼夜休むこともせず走り続けるバスの中で、たまたまその時、トロトロ居眠りしかかっていると、ドーンという衝撃があった。目が覚めれば、バスは道路をはみ出し、道の土堤に止まって大きく身を傾けている。ひっくり返っていれば何人か出た死人やケガ人のうちに私の名も加わった事はあきらか。
 それまでも荒っぼい運転を繰り返していたトルコ人の運ちゃんだった。
 インドやパキスタンではトルコ人の運ちゃんら、一種優越感を抱くのか、道を行く馬車の御者や人力車をクラクションとトルコ語の罵声で追い払って進んで来たが、ここはパキスタンの無法地帯、中央政府の威力が及ばないとも言われる、アフガニスタン寄りの国境の地域である。
 前回で遊牧するジプシーを見た事を書いたが、少し読者に頭の体操をしてもらえば、なぜあのジプシーがここで遊牧しているのか、という事である。
 ジプシー。ジタン。ヒタノス。歴史のほんの一部分、過ぐる大戦当時をのぞきみしても、ポーランドを中心とするヒットラー治下の東欧でも、スターリン政権下のソヴィエト連邦下でも、ジプシーはユダヤ人と同じくらい残虐な大量殺りくの目にあっているのである。
 ヒットラーやスターリンがジプシーの一体何を嫌ったのか。
 簡単明瞭に言えば、定住せず移動する事である。移動する事、流浪する事。定住を嫌って動く事は、定住者をおびやかし、定住者らの法体系を乱し、それゆえに権力者の神経を逆撫でする。定住を嫌う自由の民ジプシーに付随してまわる言説の大半は嘘だ。かっぱらい、ペテン、ゆすり、たかり、それらは定住者の側の思い込みだ。従って、現在、どこの国でもジプシーは施設に閉じこめられ、政府の社会福祉の恩恵を受けそのかわりに、大事な自由という翼をもぎとられているものだが、パキスタンのアフガン国境寄りではジプシーが羊を飼い遊牧しているのである。それは何を意味するのか。たぶんこの地域一帯に広がるアフガン難民も含めた幾つかある部族が、自らで武装しているのである。それにより無法地帯があらわれる。無法地帯であるゆえにジプシー本来の自由の翼は誰ももげない。
 そのジプシーが追っていたものか、トルコ人の運ちゃんのバスの行く手をさえぎるように現れたのが羊の群だった。バスの前に1台車があった。車が羊の群を追い越そうとする。さらにその車をトルコ人の運ちゃんのバスが追い抜こうとする。どう考えても無茶な話だが、羊がそのまま歩いていれば、何も起らなかった。だがたまたま羊の群が右に広がった。従って羊の群を追い越そうとした車も、弧を描いて右に移り、さらにその車を追い越そうとしていたバスも右に体を振る。ドーン。それでバスは道から落ち、道の土堤につっこみ、ひっくり返る寸前で止ったのである。
 時折、車が通りかかるだけの砂漠の中の一本道。トルコ人の運ちゃんはしょげ返っている。
アホ、マヌケ、砂漠の真中で道から落ちて、となじってやりたかったが、残念なことに私はトルコ語を知らないし、運ちゃんは一言も英語を分らない。妙におかしくなる。
 乗客やテレビクルーが車検のあたりをほじくり返しはじめたが、私の合理精神のたまものか、土をほじくっても斜めに傾いているものをひっくり返してしまうのがおちだと判断して、さっさと通りかかった乗合バスに乗り込んだ。パキスタンの街中で見たトラック野郎顔負けの装飾のついたバスである。
 中に乗り込んでみて驚いた。人間に混ざって山羊が二頭、シートのはずれた座席の脇の床にしゃがんでいる。しばらく走ってバスが町の入口で止った。男二人、女一人が席を立ち、山羊を降しにかかる。三人はジプシーだった。男が、私に何かしゃべった。私は分らない。男二人と女は今度はバスの後部からガラクタとしか思えないテント用のつっかい棒のようなものを降し始めた。今から考えても何故か分らない。私はバスを降りたのだった。男のl人がバスの上に乗り、屋根にくくりつけていたこれもガラクタのようなものを降しにかかり、女と男かそれを受け取る。バスの運転手も乗客も文句を言わず、ボンヤリとなって、ジプシーの三人の作業の終了を待っている。               
 クエッタを歩き廻ったのだった。
 そこがアフガニスタンにも近くイランにも近い街の為か、街角にホメイニ師の写真の入ったポスターが貼られているのを何枚も目撃した。書店に入り、アフガン問題のアンチョコとしてバスの中で読もうと、「アフガンの煩悶」を買い、それから例の通り、バスの中で食う果物や野菜の調達に行く。
 ひっくり返ったバスがいつ元に復すか見当つかないが、暇な折に買物をしていなければ、いつ出来るのか分らない。サトウキビの茎、干しイチジク、ザクロの赤い実、日本では滅多にお目にかからぬ果物を買う。それに、オレンジだった。

quetta3.jpg

 街の中を歩いていて、向うからルンルンのOさん、「見てよ、これ」と買ったばかりだというアフガン帽を被ってこちらにやってくる。帽子に興味はない。
 帽子には、中学以来、無帽だと教師から痛めつけられた事があるから大袈裟に言えばキョーフ感のようなものがあるし、今になって思うのだが、ひょっとすると私にある髪フェティシズムのようなもののせいかもしれないが、奇妙なまんまるい印象のアフガン帽を被ってよろこぷOさんの気持ちをはかりかねた。しかしクエッタに寄った記念にアフガン帽を買ってもよい、と思ったのだった。というのも、いつか週刊誌の編集者からアメリカ土産のカウボーイハットを勝ちあげた。いや、ふんだくった。まだ今のように極端に肥っている時ではなかったので、ジーンズの上下とカウボーイハットの組み合せは、私を新宿版「真夜中のカウボーイ」を演じている気にさせたが、その時のお詫びにアフガン帽を買っていってやろうと思ったのである。
 私も本来はさしてネのクライ方ではないから、ルンルンのそばにいるとルンルンがすぐうつる。Oさんのアフガン帽、Oさんにさして合っていると思われないが、「お、カッコイイじゃん、どこで買った?」などと心にもない事を言い、Oさんをコロリと乗せ、「その店、教えてよ」とOさんに来た道を引き返させて店へ連れていってもらう。    その帽子屋への道すがら、通りかかった回教寺院の前に手押し車を台にした果物屋があった。
 どんな果物があるのだろう、珍しい果物があれば買っておこうとのぞいていて、ふと脇を見て、衝撃を受けたOさんは、何も気づかない。寺院の前に日なたぽっこするようにしゃがんだ男 の顔に鼻がなかった。
 一目でらい病患者だと分った。一昔前、つまり特効薬が出現し完治する病であると人に認識される前まで、その病気は、病気の中の本当の病気、病の王の中の王としての輝きを持っていた。
 私は物語を沢山読んでいる。その病がどれほど人を畏怖させ、人を苦しみのどん底につき落したか知っている。
 私自身も、特効薬が出来て、完治すると分っても、怖くて、畏れ、同時にその病を抱いた人を聖なるもののスティグマだとうやまっている気持ちがある。
それでその男がしゃがんでいるのを見詰め、何も気づいていないOさんに道を急ごうと誘われても、まだ周りで見ていたいという気持ちのままたたずんでいた。
 Oさんに促されて、歩き出して、また私は見た。通りを渡ってすぐのところで、靴みがきのような道具を持ったオッサンが道に坐り、客としゃべっている。Oさんは、急に黙りこくって、立ちどまり見つめている私をみて、けげんな顔をした。その人もらい病患者だった。さらに人波をかきわけて、やっと目当ての帽子屋に歩き、Oさんと二人、アレコレ帽子を選んでいて、Oさんは何も気づかないが、ふと帽子屋の隣の服屋に来てペチャクチャ話を始めた暇そうなオッ
サンをみて、私はその人もらい病患者と知った。
 読者はこう私が書くとクエッタという町をどんな風に捉えるだろうか。
 私は隣で暇つぷしのムダ話をしている患者を見て、心の底から感動し、クエッタが私の一種理想のユートピアのような町だと思ったのだった。
 というのも、また頭の体操風になるが、らい、レプラが、人類史の上でどのように扱われて来たかという事である。
 今となっては、この病気の不孝な歴史になってしまったが、業病だとか、天刑病だとか、仏前の最たるものだとか言われ、石を投げられ、隔離され、排除されてきたのだった。
 聖書のヨプが魂の輝きを発揮するのはこの絶望の病があっての事である。
 それがここでは隔離も排除もなしに、町の中で生きている。
 何故なのだろうか?
 即答するなら、ここでジプシーの遊牧が存在するのと同じで、ここが武装した部族の力の均衡に乗った所であり、あたうる限り国家の神の御手のカが弱いからである。
 画家が暴力を管理するように病気も管理するが、クエッタではその二つが破け、自由があらわれ出ていたのである。
 
 クエッタを歩き廻った。イスラムの国特有だが、街中では男らだけが目につく。何故なのか分らない、古道具を商う店に入ってあれこれ眺め、理由もなしに金具を売る店に入ったり、街角で茶を飲んだりしながら、自分が身に決定的な横傷を受けた人間で、それだから異教の人間ばかりの所をさして恐ろしいとも思わず、暇潰しにうろつけるのだ、と思いはじめる。光も空気もねっとりと甘い気がして、歩き廻りながら、いつか必らずここに戻ってきて、かつて、韓国に滞在した時のように充分だと思うようになるまで居る事になると、予知出来ると思う。
 ハザラと言われる家古系アフガニスタン難民の居留する建物に入り込んでいったのは、そんなクエッタという町に対する圧倒的な共感があったからだと思う。まったく土着のアジア人としか言いようのない顔の、ハザラの姿をみかけ、話の糸口をつかもうと、まるで難くせをつけるように茶店でも何でもないのに、「茶を飲ませてくれないか」と声をかけた。相手がこちらの言葉を分らないのを衆知で、ズカズカと中に入っていく。「アフガニ? パキスタニ?」と訊くと、ハザラの男らは胸を張って、「パキスタニ」と答える。

hazara.jpgQUETTA Super-Boy Hazara

ShamamaSchoolForAfghanRefugees-Quetta.jpgハザラの女子学生

 たちまちOさんと私の周りをハザラの連中は取り囲み、Oさんが、プラザーだ、と言っても、「なんか、さあ、皆んな、田舎の法事に行ってハトコだとかフタイトコだとか、そう言って出てきても不思議じゃない顔なんだよね」と言っても、ニコニコ笑い、それがアフガン難民のうちでも勇猛果敢だと知られたジンギスカンの末裔のハザラだとは信じられないくらい人なつっこい。「ジンギスカン」とOさんが言う。ハザラの連中、ニヤニヤ笑う。
「ジャパン、ジンギスカン、セイムね」
Oさんが何を言いたいのか私はボンヤリと分る。Oさんの言葉にただ笑って置いてあったベンチに押しっくらして坐っているハザラを見ながら、出された茶を飲んでいると、一層、この無法地帯といわれたあたりに位置するクエッタが、一瞬白昼に見る魔術の町のような気がしてくる。
次の日に、パキスタン国営放送局の骨折りで、軍隊がバスを引き上げる弟に車輌を出してくれると知って、乗客もクルーも急きょホテルの一室にゴロ寝する事になった。
朝、ホテルの入口で、杖をついた年寄りが丈立って、誰彼かまわずに掌に乗せた宝石を見せ、買わないか、と言ってまわっていた。宝石に趣味はないしましてやどんなものが珍重されるのか、駄目なのかわからない。しかし前め日にクエッタを歩き廻っていたので、朝、戸口に立った宝石売りの年寄りが、魔術師か予言者のような気がした。そんな事はありえないが、クエッタで、年寄りから、核戦争で国という国が壊滅したとか、おまえが心の奥でひそかに待ちのぞんでいた禅の再臨があったとか耳打ちされる気がして、私は「宝石を見せてくれ」と声を掛けたのだった。


アフガン左下がクエッタ

 イランとの国境の町クエッタ、国境の町といっても、このあと国境まで砂の沙漠を相当走らなければならない。国境に一番近いパキスタンの町クエッタといったほうがいいのかもしれない。また、クエッタはアフガニスタンの主要都市カンダハルに一番近い大?都市でもある。だから、アフガン内戦が激しくなりだした1983、4年頃、多くのアフガン避難民がアフガニスタンからこのクエッタへ流れてでてきた。そして、そのうちの何割かは、アフガン難民の保護政策を打ち出しているイランへ移住することを願っていた。そのため、イランとの国境の金網にはすさまじい数のアフガン難民が押し合いへし合いの大混乱を引き起こしていた。
私はこの時期のイランへ滞在したが、この時期のイランは、イラン革命後の虚脱感とイ・イ戦争の厭世感とで、すさまじいぐらい国民は荒廃していた。とっても、もともとあまり好きではないアフガン人を広い心で迎え入れるまでになっていなかった。イラン人は、彼らのことを「ムジャーヒディーン」とか「ムジャーヒディーン・ハルク」などと呼んで、おもむろに毛嫌いしていた。

 私は、1980年代、クエッタという町を2回訪問したが、中上氏のいうとおり、本当に、らい病の者が多いのだ。
整頓されていない商店街のあちこちに、かなり進行したらい患者がぼーっとして立っているのだ。一番驚いたのは、陽の落ちた街中の暗い裸電球の下で、大きな岩の塊のようなものが急に動き出したときだった。岩のような塊のなかに光る瞳を発見し、私は腰が抜けてしまった。顔はほとんど原型はなく、身体は大きな幾つものコブだらけだった。

 アフガニスタンの人道支援団体「ペシャワール会」の代表である中村哲氏が、医師として現地で活動しはじめたのは1984年である。それは、現地で多発しているハンセン病(らい病)の治療のためである。中村氏は、当初、ハンセン病の患者は、約2400人いたという。のちに人数は増えていき、2万人近くになったらしい。ハンセン病のルーツは、この辺り、アフガニスタン北東部、パキスタン北西部で、ここから、アレキサンダー大王の時代にヨーロッパへ広がったらしい。また、日本へは中国、朝鮮をとおって持ち込まれたとのことである。
 中村氏はその後、ハンセン病だけではなく、他のすべての治療、そして荒廃した大地に緑を取り戻すため井戸を掘ったり灌漑用の川を造ったりと、少ない人手とお金のなかで頑張っている。こんな人にこそ、本当のアフガン支援ができると思うのだが・・・・
 
 中上健次は、「バスの事故がなかったら、たぶん私はこのパキスタンのクエッタという町を永久に知らなかったに違いない。」と書いている。
 クエッタという町。この町を訪れるほとんどの者が、同じような理由でこの町に足を踏み入れる。
 この町が好きで、この町に住もうと思って、この町に滞在しているものはほとんどいない。
 そういう意味では、歴史が作り出した十字路の町ということになる。
 沙漠と荒涼な大地のなかにぽっかりと浮かんだ(沈んだ)、不思議な町である。

 私は腰を擦りながら夜道を安宿まで戻る途中、小さな果物屋でりっぱな真ん丸いスイカを見つけた。
 とてもおいしそうに見えたので、そのスイカを購入し、宿の主人に言って甕の中で冷やしてもらった。
 

*昔のクエッタ
*クエッタの今

*マジックバス つづく

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