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マジックバス 1

 世界を旅する無銭旅行者は、お金はないが時間はある。
その者たちの旅行手段は、陸路をなるべく安い交通費で移動することである。
そういう無銭旅行者のひとりが考えたのが、マジックバスというイギリスのロンドンからネパールのカトマンズまでのバスの旅である。
 このマジックバスの発祥の経緯は、黒田礼二氏が書いた『街道のブライアンまたはマジックバスの話』 (1983年) に詳しく書かれていたと思う。私の記憶では、1960年代一人のイギリス人旅行者が、ただ同然で払い下げになっているロンドンの市営バス(廃車)を、バスが高価で貴重なネパールまでどうにか持っていこうと考えた。旅ができて、カトマンズでバスまで売れる!そして、どうせロンドンからネパールまでバスを移動させるのなら、バスに乗客をのせていったほうが、より多く儲けられると思った彼は、ヨーロッパを移動中、各都市で時間はあるが金のない乗客をピックアップしながら、東へ東へとバスを走らせることにしたのだった。どうにかなる!という気ままな旅である。なにせバスは廃車になったポンコツで、元々市内を走る路線バス!なものだから、乗り心地は最悪。イスなどは取っ払って、皆がごろ寝できるようになっていたらしいが、今のエアコンの効いた綺麗なバスとは雲泥の差だ。着の身着のままのヒッピー旅行である。
 その当時のルートは、西ヨーロッパからギリシアのアテネ、トルコを横断してイラン、イランも横断してアフガニスタン、アフガニスタンのカイバル峠からパキスタンのペシャワール、パキスタンを横断しインドへ。パンジャブ州を通り首都デリー、そこから北へ上がってネパールのカトマンズまで。
 日程は決まっていない。バスの状態と相談しながら、ただ東へ移動するのである。



 最初はバスをネパールで売る目的で始められたマジックバスだが、噂を聞いたヒッピーたちからの需要が多かったのだろう。その後、ロンドンだけではなく、ミュンヘン、アムステルダムという多くのヨーロッパの主要都市から似たようなバス旅がインド方面へ向けて出発していった。そして、それらのバスはネパールで売られることなく、今度はあちらでインド色に染まった乗客たちを拾い集めて、ヨーロッパへと戻っていったのである。
当時の乗客はほとんどジャンキー、バスの主催者自身もジャンキーだったりするから、このマジックバスの悪名は世界へ伝播していった。それはいい意味でも悪い意味でも、若者たちが持っていた社会に対する疑念や鬱憤の試薬となっていった。時代は、ベトナム反戦、学生運動、ビートルズがインドへ傾倒していった時期である。



 このマジックバス!その後1970年代、1980年代、1990年代と生き延びた。
ただ、バスの雰囲気も客層も大分変わってしまった。
バスは、ツアーバスに似た快適なハイデッカーとなり、乗客も死にそうなジャンキーから冒険好きの老若男女へ。
ルートも大幅に修正せざるおえなくなった。
1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻以来、アフガニスタンを通過することができなくなった。バスはイランのザヒダンより直接パキスタンへ入り、そこからアフガンの淵に沿ってペシャワールへ。
それ以外でも、このルート上の各国の政情によって、陸路での横断が不安定になることがしばしば起きるのだ。
1979年のイラン革命、その後のイラン・イラク戦争、印パ紛争、1984年のインドのシーク教問題など。

『スパニッシュ・キャラバンを捜して』中上健次(新潮社)1986より

 インドからロンドンまで一万四千キロの道を走るマジックバスに乗った。
このバス旅行は、テレビのドキュメンタリー番組で放送されたので、観て下さった方も多い、と思うが、実のところ、私もOさんも、そのバスの客なのである。
「マジックバス」はイギリスに本社を置くバス会社。二人の運転手、マネージャー助手の四人がトルコ人。乗客は雑多な国籍の若者ら二十人ばかり。
 インドを走り出して一日かけて国境に出、そこで待たされる事、半日。
 ボンヤリとただ待っている。東京でスッポかした原稿の事もサラリと忘れて、気楽なものである。
 インド側の税関の裏で、オウムが群れていた。
「オウムだ、すごいね、オウムだ」
 感動して言うが、Oさんもテレビクルーも、外人らも驚かない。なんだ、オウムか、という態度である。考えてみれば、動物に出喰すとひどく驚き、感動する習性を持っている。夏や正月に熊野の故郷へ一家で戻る折、よく山中でキツネに出喰す。
「キツネだ、キツネが迎えに出た」
 と車の中で眠り込んでいる妻や子を起す。皆が起きた頃は、キツネは既に道を横切って茂みにかくれてしまっているから、「いないよ」とか「もう」とか抗議を受ける。
 アメリカの中西部、アイオワに滞在した折、リスが走り廻っているのを見た時も感動した。
 フロリダ半島を廻りロスアンゼルスまで走った折、キツネやラクーンやウサギの死体を見て驚き胸が潰れる思いがした。
 周りの人間の無反応を不思議に思うが、野生のオウムとはいかに夢幻的な想いを誘うか、と一人つぶやいている。
 パキスタンは夢幻的な国だった。
 走り続け、夕方、とある町にたどりついた。と言っても、町のどこかで宿泊する為ではない。
 宿泊はバスの中でやり、乗客が眠っている間中もバスは走り続ける。
 バスがとまったのは、乗客の二つの生理的欲求、排泄する事と、食う事以外にない。
一時間ほどの休憩時間だと聞いて、乗客は食い物屋のある角の方へ、夕暮の雑踏の中を行く。
 雑踏は東京で言えば下北沢の駅前あたりの灯を落した感じに似ている。そこに歩いている人人にイスラム風の服装をさせ、さらに寒ければ地味な柄の薄い毛布をまとわせればよい。
 角で少年が果物を売っていた。山盛りにしたルビーのようなザクロの種を指さし、買わないか? と言っている。
「キツネハイ(いくら)?」
覚えたてのウルドウー語で訊くと、少年は指を両手で二本つき出す。私はノーと言って、一本。話がまとまって少年はザクロを両手ですくい、しぼり器の中に入れ、ふたをし、井戸のポンプを押すように全身で柄を押す。受けたコップの中にザクロの汁が流れ落ちる。鉱物のルビーから赤い果汁がしぽり出された気がし、その夢幻的な想像に、一瞬、齢若い頃、読んだランボーを想い出す。あいつは、こんな物の輝きに魅せられて、奴隷商人になって、帰る道を断ったのだろうと、私のそばにたたずむランボーの姿を幻視する。
 どなたでもベシャワール周辺へ行ったなら、私の感想を納得してくれるはずである。
 ここがアジアであるのに、イスラムの国だからか、今まで見てきたものと何から何まで違う。たとえば車。彼らは日本人とも西欧人とも、車というものの認識が違うのか、ひところ流行ったトラック野郎の飾り立てたものなど比較にならないはど、車体をキラキラしたブリキ様のもので飾り、彩色し、窓には、オアシスの絵や薔薇の花を描く。
 夜、砂漠の中をバスは走っていた。
 いったん眠りについて、眼がさめてしまい、ボンヤリと外を見ていた。
遠くから一台、走って来る車があった。その車がどんどん近づき、砂漠の中の道で相手にこちら側のライトが届きはじめて、私は息をする事も忘れた。
 こちら側のライトが向うの車のキラキラした金具の飾りや彩色に反射し、近づいてくるそれは車ではなく、全身オーラに包まれた火の鳥のように見える。
 再び私は眠りこんだ。目覚めて明け方、バスが停っているのが判った。
 外は霧雨だった。トルコ人の運転手らがいない。五、六人、乗客の姿も見えない。
 連中、茶店へ行ったのだろうと思い、私も外に出た。バスの前方へ歩き出し、ふと排泄したいと思った。ポケットの中を探った。紙はある。霧雨は降っているが大丈夫だと思い、草むらの中にしゃがんだ。ほんの一、二分後に空が白んできた。五分もたつと周りが分った。その時、私が向きあった方にあった建物のドアが開き、人が顔を出し、一瞬、しゃがんでいる私を見て立ち、無言のまま歩き去った。
 すべてが遅かったのである。出したものなど永久に戻らない。そこは草むらではなく、よく手入れの行きとどいた芝生であり、さらに明るんで分った事は、上品な格式のある建物の中庭だった事である。私はしゃがんだまま、打ちのめされていた。
 夢幻のペシャワール。シルクロードの重要な都市。
 朝食をとりにその建物(ホテルだった!)の食堂へ行った折、シルクロードの取材に来ていたNHKのクルーの一人に、中上さんですね? と声を掛けられたが、私は、固く自分の恥については口を閉ざした。いや、ひょっとすると、このあたりの人、それを恥と思わないのかもしれない。街道筋でチャイを売る茶店の裏に廻ると、固型物がゴロゴロとある。旅をしはじめてほどなく乗客全員、なにしろ便所などないところを走り続けるのだから、皆、野グソなのである。並んでやるところなど、夢幻的(ファンタジック)としか言いようがない。 


中上氏のこの本は1986年に発行されているので、中上氏がマジックバスに乗車したのはそれ以上前ということになる。
そのころのインド北部は、かなり政情不安定であった。マジックバスも出発できるかどうか、かなり不安定な運行管理を強いられていた。

1984年6月に、インド陸軍のシーク教総本山ゴールデンテンプル制圧事件(ブルースター作戦)が起きた。
数年前からシーク教徒は、ヒンズー教が多勢を占めるインドへの不満から、自教徒内で意見の対立が起きていた。
シーク教徒同士の殺し合いがあり、その中で一番力を持つことになったビンドランワレは、シークの原理主義者だ。彼は、当然のごとく、自分を批判する者やヒンズー教徒にテロを仕掛けていった。シーク教総本山ゴールデンテンプルに住を構え、治外法権になっているその場所を要塞化し、インド各地で殺人をしてはそこに逃げ込むことを繰り返していった。これ以上の殺人を許してはおけなくなったインディラ・ガンジー首相は、ゴールデンテンプルのあるパンジャブ州アムリツァルに中央予備警察、のちにインド陸軍を配備していた。
そして6月5日の午後7時、インド陸軍はゴールデンテンプル内に総攻撃をしかけたのだ。シーク教の総本山、白い大理石に敷き詰められた敬虔な空間は、あっという間に血の海となり、戦車が突入したことにより、建物は大きく破壊された。のちに公開されたゴールデンテンプル内部は、多数の銃創や火炎の痕で、壮絶な姿態を全世界のシーク教徒にさらけ出すことになった。シーク教徒のショックと怒りは、抑えようもないほどであっただろう。



私は、1984年の3月にマジックバスに乗ろうと思ってデリーに居たのだが、このシーク教問題でパンジャブ州の外国人通行許可が下りないということで運行しなくなってしまった。インドからパキスタンへ陸路でいく場合、どうしてもパンジャブ州を通過していかなければならない。私は列車へ切り換えることにした。切符を受取るとき、窓口の係員は私に、「この列車は国際列車で途中下車はいっさい禁止です!そのままパキスタンのラホールまで乗車ください」と言った。
  

中上氏の旅はたぶん、この事件の前、1983年頃ではないだろうか。この事件はその後のシーク教徒全体の怒りをかい、インディラ・ガンジー首相の暗殺へとつながっていく。パンジャブ州の安定はその後もなかなか回復しなかったのである。

*マジックバス つづく


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