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1937年の上海(ロベール・ギラン)

 フランス・アヴァス(AFP)通信の記者ロベール・ギランは1937年秋、中国行きを命じられる。

その年の7月、日本は、中国に対して盧溝橋事件をおこし、その戦況は、上海まで拡大していた。
日中戦争のはじまりである。



ロベール・ギランは、シベリア鉄道を使って、モスクワ、イルクーツク、満州里、ハイラル、チチハル、ハルピン、
ここから、大連まで行き、船で上海まで渡ろうと思っていたが、このルートが通行止めになっていた。
そこで、急遽ルートを変更し、ハルピンから奉天、そこから朝鮮半島を釜山まで縦断し、一旦、日本へ、長崎から船で上海へ行くことにした。
フランスを出てから約20日間の旅であった。

USSChaumontShanghai[1]


1937年11月、ロベール・ギランは、まだ戦火の続く上海へ入場した。

『アジア特電』ロベール・ギラン著より

 
ヨーロッパが中国の成行きをよく見まもっていなかったにせよ、
上海の方でもまた、時代の禍いに対して、一種尊大な無関心から抜け出ることはなかった。
そこには、矛盾はするが並存している二つの理由があったと思う。
富める者と成金のシニシズムと、自分たちの惨苦の囚われ人となっている貧しき者の、あきらめから来る慣れである。
饗宴と、金と、歓楽の上海は、わたしにはあまりかかわりのない世界だったし、わが仲間にとっても同様だった。

ShanghaiHennessey[1]

目前の状況と職業からいって、われわれにはそんなひまはなかったのだ。
しかしその上海は、そこに、われわれのぐるりにあった。
近代中国の前衛、アジアにおける資本主義の旗手として、国際都市上海は、死の宣告をうけた中国世界の崩壊と、次なる革命の到来を、その目で見たくはなかったのだ。
戦争が南京路やジョフル大通りの二キロ先で荒れ狂っているというのに、こちら側では黒ネクタイ着用の晩餐会とカクテル・パーティーの輪舞が続き、主催者の国籍もさまざまなら、出されるアルコールも色とりどりだった。
映画館は満員。人びとはマージャン、ポーカー、ルーレットに興じ、競犬場のグレーハウンド犬のレースや、〈ハイアライ〉のペロタ球技に賭けていた。
中国料理屋では、たっぷりした食事を終えて支払う段になると、会計係は全部の客に聞えるように、鋭い声でよばわる。
「王(ワン)さまは五百ドル札でお支払い!」
その金持の客の顔を立てるためだ。
租界のダンス・ホールに夜は更けて行き、そこで中国人や白系ロシア人のホステスをハントしてから、さんざめきはナイトクラブか娼館に移って、明け方まで続くのだった。
上海の光輝がやどるところはバンド〔外灘〕だった。

shanghai_bund[1]

黄浦江の河岸に面して、共同租界とフランス租界との、威風堂々たるファサードである。上海のシンボルともいえるバンドは、西洋と東洋の出会うところであり、後進の黄色人種に対する白人の優越性を目もあやにひな型として示そうとしていた。
力動感にみちたビルが河に面して途切れのない城壁をつくり、米国の摩天楼のような美しさで、白くかがやき、倣岸さと金の力で人を圧倒し、はるかな高みから目を光らせて、港湾労働者のアジア人のひしめく群を見まもっていた。
インドシナ銀行にいるわが友人たちのような、自己取引業者や銀行家の耳には、碼頭(まとう)のクーリーたちのざわめきは届かないのだろうか。
ゆったりとうねった先は霞む地平線のなかに消えて行く、幅広い銀色のリボンのような河のかなたに、気がかりな中国の動きを、彼らは感じていないのだろうか。
それとも、警戒のためにヨーロッパから派遣され、ずっと下の、あそこの水面に、灰色の姿をみせて碇泊している何隻もの大きな軍艦のおかげで、安心しているのだろうか。
 というのも、バンドは、西洋植民地主義と中国化した資本主義が勝ち誇る光景とその背後の中国の極貧の民、その隷従と苦悩の姿という気がかりな裏面が観察できる場所でもあったからだ。
ここに好んでたむろしていた浮浪者たちと、碼頭で働いているクーリーたちと、どちらが一層悲惨な状態にあるのか、判断はつきにくかった。
多分盗みと物乞いでいのちをつなぐ浮浪者たちだろう。
クーリーたちの方は、晩方から夜まで船荷を積んだりおろしたりして、少くとも数百元はかせぐ。
青い布の服を着ていたり、ぼろをぶら下げていたり、また寒さがゆるむやいなや半裸体となって、彼らは船と岸壁との間にわたされた狭い板を伝って往復する。
木箱や、綿花の大包みや、行李や、巨大な獣を運ぶとき、圧しつぶされそうな重さに背が曲がっても、あるいは二人で組んで、しなう竹の両端をかついでいても、その敏捷なことといったら、網渡りの芸人のようだ。
そして彼らは景気をつけるために、また群集に道を開けさせるために、のどの奥から出るような歌声をひびかせる。
それは三つか四つの悲しい音で、彼らの気分によって限りなく変化し、苦痛と隷属が生むその単調な旋律は、まさに奴隷たちの労働歌である。
ひとりのクーリーの姿が目のあたりに浮んでくる。
セメント袋をかつぎおろしていたその男は、顔もまぶたも、白い粉だらけだった。
体を二つに折り、なかば目が見えず、手を首のうしろにまわして、背負った荷をわしつかみにしている。
ゴールにたどりつくと、腰をぐいと動かして背負った袋を投げ出し、手は自由になる。
一瞬、彼の腕は十字を組み、その顔は責苦のなかで嘆き求めるキリストを思わせるのだった。

 上海の戦闘が終りに近づいたある晩のこと、われわれは優雅なレセプションに招かれたあと、少人数のグループで繰り出し、真夜中に近い街でどこかテラスをさがしてのぼり、その高みから、今夜はいかなる火の手が夜空を染めているか、眺めようとしていた。
バンドの延長であるフランス河岸の突端で、まもなくわれわれは、ある保税倉庫の、巨大でとても近代的な建物にもぐり込み、暗闇のなかで、だだっ広いコンクリートの階段に行き当った。
非常に傾斜のゆるい、奇妙な階段で、ステップは長くてきわめて低く、全体がひとつの斜面というのに近かった。
事実、ここは日中クーリーたちが大きな積荷を背負って各階の置場に運ぶ通り道なのだが、それで万事うまく行っているので、保税倉庫にはエレベーターをつけずにすませているのだった。
二階から上は灯がついており、寝ている人間の群が壮観なほど、続いていた。
コンクリートの踊り場、階段、そしてあいている空間があれば所かまわず、置場の閉ざされた扉までいっぱいに、クーリたちがいた。
昼間と同じ人たちが、この時刻には、ここよりほかに屋根もなく、このセメント・・・時にはアンペラ、袋、古い木箱の板・・・よりほかに臥所もなく、日々の労苦の場所と同じところで、眠っていた。
 あたりの空気は汗の臭いでむんむんしていた。
多くの者は裸に近く、ぼろのなかからブロンズの彫刻のような肉体があらわとなり、たまに濃い色の上掛けも見られたが、それは彼らの顔を一層生気のないものにしていた。
われわれは上に行くのに、彼らを死体のようにまたがなければならなかった。
川の流れが溺死体を岸にうちあげるように、おおいかぶさるような眠気がクーリーたちをここにうちあげたのであり、ひとりとして、目をさまさなかった。
馬鹿げた、けしからぬ恰好をしたわれわれの一団が通るのを、有難いことに、そこにいるだれも、見なかったと思う。
いい忘れたが、われわれときたらスモーキングの正装で、連れの二、三人の女性は、イブニング姿だったからだ。
ここかしこで脚やむきだしの肩におぼつかなくもぶつかってしまうわれわれの足ほ、エナメルの靴をはいていたが、寝入った徒刑囚たちを起すことはなかった。
五階、六階、七階・・・・・人間が身を置くだけのすき間があれば、ひとりが横たわり、あるいはエビのように身をまるめて寝ていた。
電灯の光をよけるのに前腕で顔をおおっている者たちもいて、それはいってみれば、敗者がとどめを刺されまいとして身構えた姿だった。
 八階、九階・・・・・この奴隷の寝部屋で、汗に光も胸や硬い筋肉の腕が、暗い片隅や折りかさなった群のあちこちに浮びあがっている光景には、何か陰鬱な美しさがあった。
時には二人、三人、四人が場所をとらないように詰め合って、互い違いに寝ていることもあり、一方の顔のそばに、もう一方のはだしの足が伸びていた。
九階からは、乾燥卵のマークが際限なく繰り返されて入っている木箱が、彼らの寝場所を占領していた。
十三階には、うちひしがれて苦痛や死の体型をとっているこれらの人びとが、あい変らず寝ていた。
そして不意に、横たわる人びとの最後の一団を越えたところで地獄めぐりは終り、大きなテラスに向って開いた出口が、広やかな風通しとなっていた。
われわれはいま空のはじまるところ、上海を足下に見ながら、血のような火炎にまみれた夜の縁にいた。

shanghai1937-10-27fire.jpg

街が、〈彼らの〉街が、燃えていた。
勘定してみる。
われわれの周囲の火炎は十九カ所。
かなり近いのもあれば、ほのかな光が代る代る現れては消える星雲のように、遠いものもある。
また別のはぐっと近く、大きな水藻のような火の手が立ちのぼるなかに、家々の屋板のシルエットが浮んでいる。
頭上には、はるかに高く、風が煙の雲を斜めに立ちのぼらせたあと、その渦の方向を曲げようとしていた。
十二月になると、日本軍は通行禁止令を解除しはじめ、〈通行証〉を持ったわたしは、蘇州河北方の、戦場となった地域を訪れることができた。
わたしはまだ人の住める場所があるだろうと思っていた。
実際には、火の手がすべてをなめ尽したあとで、わたしは三時間というもの、煉瓦と炊けぼっくいを伝いながら、廃墟の砂漠を歩き回ったのだった。
奇蹟的に火が回らなかった場所がぽつんと残っていても、その中身はそっくり、略奪によってえぐり取られていた。
また別の機会にわたしは閘北にも行ったが、今度は空襲にやられた街の光景を見ることになった。
ふたたび、目の前にあるのは、かつて船上から見た、第二次大戦の最初のイメージだった。
廃墟と、そこに残る石、コソクリート金属板、舗装部分は、火の海をくぐったあと、何もかも文字通り満身創痍で、穴があき、むしばまれていた。
さらに足を延ばして街の西郊の田舎に行ってみた。
そこでさえ戦争はひどい破壊の跡を残していた。
固めた土と竹でできたあばら鼻の集まる最も小さな村でさえ、爆弾の雨を浴び、場所によっては、第一次大戦のヴェルダンの戦場のように穴だらけだった。
畑では、まだ至るところにといっていいほど横たわっている中国兵の、酸鼻をきわめた死体にぶつかった。
塹壕の跡には、にぎりしめた手がひとつ、土のなかから天を指して突き出ている。
少し離れたところには首が、まだ中国軍の青天白日旗のマークのついた鉄かぶとをかぶったまま、転がっている。
腹をすかした犬どもが追いかけ合い、生け垣沿いに人間のしかばねを争って、はげしくたたかっていた。
池のなかでは死体が腐り、たまらない臭いが立ちこめている。
そこから五十メートル離れた場所では、中国の農民たちがまた畑仕事にとりかかり、身の毛もよだつ近隣の死人たちにも一見、知らん顔で、体を折り曲げて地面を掘り返していた。
彼らは、自分の畑の端にある腐乱死体を土に埋める労さえとらなかったのだ。
幽霊をこわがっているのだろうか。
それともむしろ、自分の同胞に対する当時の中国人の、残酷な無関心からだろうか。
 その冬は-むかしからそうだったのだが-歩道にごろ寝する宿なしが多い中国人衝で、夜の間に凍死したあわれな人びとが朝になって見つかるのが、日常茶飯事になっていた。
自分の家の門口でどこかの老人や子供が死んでいるのに気づいた時、中国人はどうするか。
彼は夜の明ける前、死体をそっとひきずって、少しばかり離れた、近所のどこかの家の門口に置くのである。
こうした不運な人びとを集めて回る仕事は、毎日早朝に行われていた。
それは慈善団体・・・外国人団体の、事業だった。
ある日市外の飛行場近くに用事があった時、わたしは田舎のまんなかで、クーリーたちが、木箱の山をトラックからおろしている異様な光景を目にした。木箱は不細工なつくりだったから、ふたがはずれ、どの箱のなかにも、中国人の子供の小さな凍死体が見えた。
トラックには大きな白十字とともに、次の文字が読めた・・・「共同墓地慈善協会」。
共同墓地といっても、畑がその代用なのだ。
それもどうやら、持ち主が逃げ出したあとの、一番手近なところで済ませていた。
木箱を乱暴に、3段に積み重ねてしまうと、クーリーたちは気を取り直して、30センチほど土をかけた。
小さな箱の次は大きな箱の番であったが、釘のうちかたは前にもましていいかげんで、浅い埋めかたは似たり寄ったりだった。
その光景はおよそ葬いにはほど遠く、人間の大群に欠員が生じてもたちまち補充してしまう中国の生命の、死を上回るたくましさを反映して、またしてもここには、完全な無関心があった・・・・・・




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