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上海・・・金子光晴

 
 私が、中国へよく行くようになったのは、1980年半ばからである。
当時の中国は、北京や上海のような大都会でも、近代化という言葉とはまったく縁遠いものだった。国際空港もただの無機質な建物といった風であり、街のなかでは、馬の引く荷車やリキシャ、行き交う人々は人民服姿かそれに近い地味なかすれた服であった。スカートなど履いている女性は皆無であった。
夜に遊びにいこうと思っても、北京、上海でさえ、外国人が酒を飲める店は限られていた。クラブやバーは、1,2件しかなかった。そもそも、飲みに行こうにも、夜8時以降タクシーを捕まえることは不可能であった。8時前に仕事終了なのであった。

 それが今では、おどろくべき姿に変貌した!
上海、北京という国際空港は、コンピューターで管理された機能的な最新空港である。インターネットなどの設備を配備した世界トップクラスである。
上海の街はどうか?

shanghai3.jpg


地面の下は、地下鉄網。地上には、3層の高速道路。
摩天楼にアメリカ顔負けのショッピングモール。
古い建物の地区を発見と思えば、観光用の歴史地区、とここまで何の未練もなく、こんな大都会を徹底的に破壊、近代化できるものだとビックリする。

横光利一や金子光晴が、『魔都・上海』として、著書で魅力的に表現した上海を、今ではほとんど感じえることはできない。
私が行った、1980年代半ば頃から、中国は、共産主義国でありながら、個人の小資本というのを多少認めるようになってきた。
街なかでは、香港系のホテルがちらほらと見られるようになり、そのサービスは中国資本とは明らかに違ってきたが、まだ大きな変化のうねりのようなものは感じなかった。
まだ、中国人の店に入れば、最低のサービスしか受けられなかった。食べ物の運ぶのがめんどくさいらしく、添乗員自ら、調理場まで取りに行っていた。
ただ、その頃はまだ古い中国が至るところに垣間見えていた。
とくに、建物や路地などは100年前のままだったのではないだろうか。

『どくろ杯』金子光晴著・・・上海灘より(1928年昭和3年)



 あの頃(一九三〇年頃)の上海のようなミクストされた、ミクストされる事情にある港市は、これまでも、この後も、世界じゅうにあまりみあたらないことになるのではあるまいか。
この土地は、二千年前は呉楚の地で、楚の春申君の故地なので、いまだにこの土地を申とよぶ。
滬(フ)とよぶのは、その字が河なかの矢来を意味していて、揚子江の支流呉淞江(ウースンコウ)の流れ落ちる手前に栄えたのでそれをよび名にしたものであろう。
もとより中原からは取り外された僻地で、揚子江の沈澱でできたこの下湿の地が、開化的な今日の都会の姿になったのは、イギリスの植民地主義が、支那東岸に侵略の足場を求めて、この最良の投錨地をさがしあて、湊づくりをはじめて以来のことで、それから今日までまだ、百年ちょっとしか経っていない。
もうその頃からこのへんは、戦火のちまたで幾度となく瓦礫地にかえり、それ以前には、くり返し、倭寇が荒しまわっていたものであった。

Shanghai_19th_century[1]

今日でも上海は、湊喰と煉瓦と、赤瓦の屋板とでできた、横ひろがりにひろがっただけの、なんの面白味もない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれはつづいていた。
かさぶたのしたの痛さや、血や、膿でぷよぷよしている街の舗石は、石炭殻や、赤さびにまみれ、糞便やなま痰でよごれたうえを、落日で焼かれ、なが雨で叩かれ、生きていることの酷さとつらさを、いやがうえに、人の身に沁み、こころにこたえさせる。
恥多いもののゆくべきところではなさそうなものを、好んでそこにあつまってくるのは、追われもの、喰いつめもの、それでなければ、みずからを謫所(タクショ、罪を受けて流されている所)に送ろうとするもの、陽のあたるところを逃げ廻る連中などで、その魂胆は、同色のものの蔭にかくれて日に立つことを避け、じぶんの汚濁を忘れようというところにあるらしい。
私たち、しょびたれたコキュとその妻とが、この地を最初の逃場所に撰んだのも、理由のないことではないのである。殊更その夫には、おのれのあわれさとかなしさを、それほど意識しないですむためにも、負けずに凄まじい悖徳者(ハイトクシャ、道徳に背くもの)や、無頼の同胞のあつまるなかにまぎれ込んで、顔に泥んこを塗ってくらすことは、屈強このうえもない生きかたであった。




・・・・・・・・船を下りて三人は黄鞄車(ワンポツオ)をつらねて走り出した。くすんだ曇天の街の、煙硝とも、なまぐささとも識別できない、非常に強烈だが一種偏って異様な、頑強で人の個性まで変えてしまいそうな、上海の生活のにおいを、私たちの内側まではっきり染みついているなつかしさで一つ一つよびさまさせる。

ricksha.jpg

上海の苦カたちは、寧波(ニンポウ)あたりから出てきた出稼ぎの細民で、なかには、倒産しかけた一家を助けるため、資金稼ぎに出てきている商人くずれなどもいる。
師走前には、梶棒をすてて、裸のからだに泥を塗って、強盗を働くものもあり、青幇党(チンパンタン)の杯をもらって、ばくちやその他の悪稼ぎに足を突込むものもある。
客をのせればゆく先もきかず、暗雲に走りだす。文字通り彼らは、じぶんのいのちを削って生きる。厳寒でも裸足で、腫物のつぶれたきたない背中を、雨に洗わせて走る。
客は、その河童あたまを靴の先で蹴りながら、ゆく方向を教える。
人力車は、もとは日本からわたったものであるが、日本の車夫のようなきれいごとでは立ちゆかぬほど、たった二十枚の銅貨を稼ぐことがむずかしいのだ。
苦カばかりあいてのめし屋がどこにもあり、荒っぽいが栄養はたっぷりの牛の臓腑のぐつぐつ煮たものをたべさせる。
二十枚のドンベで、どうやら飢をしのぐに足りる。
ドンべは四百何十枚でなければ、一元にならない。
私のいたころの元の相場は、日本の円とパアで通じた。
黄鞄車苦カ(ワンポツオクーリー)には、金への執着と、食欲しかない。
性欲は、贅沢の沙汰だ。
上海の旧城の外には、苦カあいてのいかがわしいのぞきからくりがあり、それをのぞきながら手浬するのが、最上の処理の方法だったりしたが、蒋介石の治下になってからは、阿片追放、グロテスクな見世物、人間の皮膚をすこしずつ剥いでそのあとに動物の毛皮を植えつけた熊男や、生れるとすぐ嬰児を箱に入れ、十年、十五年育てた小男の背に、つくりものの羽をつけた「蝙蝠」(こうもり)の見世物なども、禁制になって影を消した。
蝙蝠は、蝙が福のあて字で、目出度いと言うので、商人に縁起をかつがれ、大きにはやった見世物であった。
むろん、卑猥な見世物・磨鏡(モウチン、女同士の性交をみせるもの)や、戸の節穴からみせる性交の場面なども禁じられてしまった。
たしかに苦カたちは、欲望の世界で、欲望を抑圧された危険なかたまりで、その発火を、自然発火にしろ、放火にしろ、おそるるあまり、周囲の人たちは、彼らがじぶんたちと同等の人間であることを意識して不遜な観念を抱くようなことのないように、人間以下のものであるらしく、ぞんざいに、冷酷に、非道にあつかって、そうあってふしぎはないものと本人が進んでおもいこむようにしむけた。
そういう変質的なまであくどいことに就いては、中国人は天才であった。

shanghai2.jpg

shanghai.jpg












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