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ラングストン・ヒューズのジェノア 2

 
 ラングストン・ヒューズのジェノア その1のつづき

*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より




(1833-1895)Genova Piazza_Caricament

 その年の秋、ジェノアの波止場を徘徊しているものたちで、英語を話すのは、わたしたち六人くらいだった。
アメリカの白人がふたりにわたし、スコットランド人がひとり、リミィとかいう名前の男、それにすごく背が高く骨が太く色が黒い巨人のような西インドの黒人だった。
この西インド人は、職業拳闘選手のように見せかけ、そしてじぶんよりはずっと小柄で弱いイタリアのボクサーたちに、群衆がイタリアの勇猛さにどよめくなかで、ノックアウトされてやることで、かなりの金をかせいだ。
おそらく、この黒人の男は、いまごろはもう相当の金持になっていて、きっとエチオピア人のように見せかけながら、相変わらずノック.アウトされていることだろう。
 残りのわたしたちはというと、ただの波止場の浮浪人いがいの何ものかのように見せかけることは、あまりうまくできなかった。
しかし、テキサス州出身のアメリカ人がいたが、この男は波止場で浮浪生活を送るこつにかけては、すばらしく鮮やかな手ぎわをみせた。
イギリス人であろうと、アメリカ人であろうと、観光客たちの一行が近づくと、かれは海岸通りの公園のべンチにぐったりと腰かけていて、まるでこの世にじぶんほど痛ましい人間はいないといったような様子をするのだった。
かれの目はうつむき、かれの口はたるむのだった。
だが、かれは、観光客たちが立ち止って、眼下にひろがるジェノア港のパノラマを見下ろしながらがやがや言っているその話し声にだけは、耳を鈍くそば立てているのだった。かれらがまた先へ進んでいくと、ケニィという名前だったそのテキサス人は、立ち上がり、息せき切ってかれらを追いかけ、こういうふうに声をかけるのだった。
「ヴァーモント州からいらっしゃったんじゃないですか?」
あるいは、キャンザス州からでは? ウェイルズからでは? とか、その他どこであろうとかれらの話し声からそれとわかるようなところから来たのではないですか、と。
そして、しばしばかれは、ぴったりと正確に言い当てるのだった。
かれは、すぐれた俳優であるうえに、いろんな地方の語調にかけては不思議な才能を備えていた。
 もしもかれらが「そうですよ」と答えれば、ケニィはこう言うのだった。
「わたしもなんです。わたしはニュー・イングランドの出身です。このざまを見てやってください、同郷のかたがた! こんな遠いイタリアの国で無一文になって、故郷に帰る船にも乗れないヴァーモント州出身のこの男を。」
 ときには観光客たちは、かれに、わたしたちみんなが一週間は暮らせるほどの金をめぐんでくれるのだった。

genova(1)[1]

 わたしたちの仲間のひとりのスコットランド人の若者も、そのやりかたにかけては、このケニィに劣らぬほど巧妙であったが、でもかれほどではなかった。
時には、怪しいぞ、と思われたこともあっただろう。
もしも雨が降っていれば、かれは外套を脱いで、それをわたしか誰かほかのものに持たせるのだった。
それからかれは、雨宿りの場所をさがして急いでいる観光客たちの一行に近づいていって、冬がやってくる憂鬱な国の白人という口実で、身に弛みる寒い北西風から身を護るために、どうか何か古着を買えるだけのめぐみを、と乞うのだった。
 もしも、雨ではなく陽のよく照る日であれば、観光客たちが近づくと、かれは急いで穿いている靴をぬいで、地面で風に吹きまくられている新聞紙の下にか、それともどこかの木のうしろに、それをかくすのだった。
それからかれは、公園のベンチで眠ってるあいだに、何者かに穿いていた靴を盗みとられ、それで今じゃイタリア人というイタリア人からあざ笑われているんですよ、と言うのだった。
すると、きっとイギリス人かアメリカ人かが・・・毛並みのいいひとびとだった・・・新しく靴を買うようにと援助してくれるのだった。
かれに近づかれた観光客たちの一行は、たいてい援助の手を差しのべたが、場合によっては半クラウンかあるいは一ドル紙幣ほども恵んでくれるのだった。
 あからさまに卑屈に物乞いをするということは、ケニィにとってもそのスコットランド人にとっても、沽券にかかわることだった。
かれらは、いつも同情をひくために芝居をしてみせた。
そしてわたしの知るかぎりでは、盗みをやろうとするものは、わたしたちの仲間のうちには、ただのひとりもいなかった。
                                                                                                                 
 イタリアの警察は、拘留中、ひとの感情にたいしてきわめて思いやりがないと言われていた。
 波止場の浮浪人たちのなかには、小太りの美しい食料品店の細君とか、波止場のバーの女給とかに言い寄るものたちがいた。
あるアメリカ人の若者は、娼婦と夫婦暮らしをしていた。
それというのも、じぶんの乗っていた船に思いがけぬうちに出ていかれてしまい、そのためその娼婦のベッドに置き去りにされた夜、かれはその女に給料を使い果たしてしまったからだった。
それで今では、そのときのお返しに、女のほうがその若者に寝食の場所をあたえていたというわけだった。

italia.jpg

 種々雑多で得体の知れない人間たちから成りたつグループだったわたしたち六人は、日がな一日、波止場を連れ立ってうろつき回った。
そして、運よくありつけたものは、何でも、わたしたちはみんなで分けあった。
しかし、日没のころになると、だれもかれも、みんな散りぢりになった。
仲間のなかには、いつも乗組員たちの食事を当てこんで、港に碇泊中の船に乗りにいくものがいた。
巨漢の黒人は、よくイタリア人の経営するどこかの喫茶店とか、農民たちの宿舎とかを探し出したものだが、そういう場所では、しばしばかれを眺めたり、かれのごしゃごしゃもつれた宴の毛にさわってみたりするだけで、それまで黒人なるものにお目にかかったことのない農民が、食事を振舞ってくれるのだった。

 わたしは、たいてい肉汁をかけたスパゲティとか、バターをまぶしたスパゲティとか、海産食物製のソースをかけたスパゲティとか、チーズをかけたスパゲティとか、トマト・ソースをかけたスパゲティとかを、あるいはその他イタリア人の出すいろんなつくりかたのスパゲティのどれかを、また場合によってはただのスパゲティだけを、海に臨んでいる小さなレストランで - そこでは、湯気が立つほど熱くてパスタがたっぷり盛られている一皿きりの料理だと、とても安かった- ロールパン一個と赤ぶどう酒一本をその上につけ加えて、食べた。
それからわたしは、じぶんの簡易宿泊所に帰って、寝るのだった。

 ところがある夜、わたしは、肉を一切れ食べてみたくて我慢ができなかった。
たった一切れでいいから、スパゲティみたいなものでない、上等の部厚い堅い肉が欲しくてたまらなかった。
もう何週間も前にべニスを発ってきていらいというもの、わたしは一切れの肉も口に入れてはいなかったのだ。(ああいう美術博物館が、なんと遠くなってしまったことか。)
 そこでわたしは、そのレストランのメニューにのっている肉の目録を見おろしたが、そのどれも読めなかった。
わたしには、それらのイタリア語がどういう意味なのか、わからなかった。
だが、それらが肉であることはわかったので、「三リラ」と値段のついているものを指で指し示して、それを持ってきてくれるよう、給仕のほうにうなずいてみせた。
 たのむ、はやくやってくれ! 肉だ! とうとう、肉にありつけたぞ! 口から、つばきが出た。
いよいよそれが運ばれてくるとき、わたしは、遠くからその匂いをかぐことができた。
レバーだった。
そして、熟した果実みたいに赤くふっくらしていた。
イタリアでは、小さなレストランは冷蔵庫を置いていない。
おまけに、イタリア人たちは、やや匂いのある古くなった肉を食べるのに慣れているようだ。
いずれにせよ、出されたそのレバーは、古くなっていた。
ひどく古いやつだった。
しかし、わたしは飢えていたし、それに、何か別のものと取り替えてもらうよう頼むとか、払ってしまった金を戻してもらうとか、あるいは大騒ぎをやらかすとかといったことをしようにも、どうやってそれをやればよいのかわからなかったし、また夕食を食べないですますわけにもゆかなければ、三リラの金をむざむざ失うわけにもゆかなかったので、そのレバーを、うまく口にもってゆけずにころび落ちてしまう、どんなにわずかな切れはしもあまさずに食べ、赤ぶどう酒で咽喉に流し込んだ。
そして、簡易宿泊所のベッドで眠った。

genova[4]

 その日の夜、ジェノアに地震があった。町中がぶるぶる震え、揺れ動き、だれもかれもが通りに飛びだした。
アルベルゴ・ポプラーレは大騒ぎだった。
大急ぎで服を身につけようとする男たちの叫び声が、わたしを目覚めさせた。
わたしは、建物が震動しているのを感じた。
だが、わたしは目が覚めたものの気分が悪かった!
そして、建物が揺れれば揺れるはど、わたしはますます気分が悪くなった。地震のせいでも恐怖のためでもなかった。
原因は、あのレバーだった!
まだ口のなかで、あの味がしていた。
いやはや千年もの古さのだ。
胃袋のなかであいつが沸き返ってるのが感じられた。
吐く息に蛆(ウジ)のようなやりきれないほど生臭い匂いがするのがわかった。

 背嚢を背負い、学校の生徒がはくようなパンツをはいた恰好で、ヨーロッパ中を徒歩族行してまわるそういうドイツ人たちのひとりが、かれは、わたしを揺さぶりながら、わたしの寝台に近づいてきて、横たわっているわたしを見つけた。
かれは、わたしを揺さぶりながら、こう言った。
「起きるんだ! 大地が陥没しようとしてるんだぞ。」
「陥没してほしいよⅠ おれは病気なんだ、」と、わたしは言った。
それでそのドイツ人は、わたしをベッドに置いたまま、先へ進んでいき、他の連中と一緒に大急ぎで表のほうへ駈けていった。
 どれほどはげしく地面が揺れようと、わたしは、そんなことはほんとに何とも思わなかった。
なぜなら、どっちみちじぶんは死ぬだろうと思ったからだ。
ところが、地面の震動は、長くは続かなかった。
まもなく、だれもかれも、みんな戻ってきて、眠った。
だが、わたしは二日間も病気だった。
それでわたしは、毎朝アルペルゴ・ポプラーレからわたしたちが追い出されるときには、公園のベンチまでたどり着くのがやっとの思いだった。

 ある日のこと、わたしは公園にすわって、アフリカへわたしが旅行したときのことについて原稿をつくり、それを「クライシス」誌に送り、「クライシス」誌のひとびとに、じぶんはイタリアで立往生してしまい、飢え死にしかけている・・・が、お金が届くまで何とか持ちこたえるようやってみるつもりだから・・・どうかこの稿料として二十ドルを出していただきたい、とたのんだ。
「クライシス」誌にいやしくも報酬を出してくれるようにと頼んだのは、あるいは報酬を出してくれるものと期待したのは、そめときが初めてだった。
さて、わたしは、必死になってその原稿がみんなに気にいってもらえるようにと、望んでいた。
 いろんな具合の悪いことというのは、いつも同時にあらわれるものだ。
わたしが病気になってから数日たって、波止場をうろついていたわたしたち六人ほ、黒シャツ隊員たちに追跡された。
かれらは、港の近くでわたしたちがサーカスのポスターに出ていた道化師を見て笑っているのを目撃して、アメリカ人の青年のひとりをなぐり倒した。
かれらファッショ党員たちは、わたしたちが問題のサーカスのポスターの隣りに貼りつけてあったムッソリーニからのメッセージを見て、あざ笑っているんだと思ったのである。

 そんなことがあってから一日かそこらして、わたしは、港のずっと離れた深い水域に碇泊している船の古くなった船体にペンキを塗る仕事を手にいれた。
船尾の下方にあたる船側の部分にペンキを塗ってほしいといわれたのだが、この仕事をやるには、ぺンキ屋の使う足場に乗らねばならず、多少の熟練が必要だった。
わたしは、どうやって足場を揚げ降ろしするのか、そのやりかたすらも知らなかったし、泳ぎもできなかった。
だが、ある親切な水夫がわたしを降ろしてくれて、わたしの代りにロープを結んでくれた。

sea.jpg

そんなふうにして、わたしは、水の上の同じ個所で一日中ぶらぶら揺れながら、いつまでも六フィートの同じ仕切りをせっせと塗っていた、――― 足場もペンキも、それにじぶんじしんも、もろともに海に投げこまれてしまうのを恐れて、思い切ってもっと上がってみるとか降りてみるとかすることができなかったのだ。

 まもなく、わたしは、ジェノアにいるのがいやでたまらなくなりだし、どこか他のところへ行きたいと思った。しかし、はるかジェノアの地にまでも、アメリカの人種差別の境界線は伸びていて、それにともなうさまざまの不自由な偏見がみられた。
わたしが港をさまよい歩いていた何週間かのあいだにも、幾隻かのアメリカの船が入港した。
そして、ひとりまたひとりと、白人の男たちは雇い入れられていった。
だが、どの船も、その乗組員に黒人をとろうとはしなかった。
わたしは、乗組員がすべて黒人であるか、または黒人のボーイたちの働い一ている部署をそなえた船が入ってくるのを待たなければ、雇ってもらえる見こみはなかった。
やっと、そういう船がやって来た。
そして船長は、ニューヨークへの帰りの航海のあいだ、給料なしで船賃分を働く人間として、わたしを雇い入れることに同意した。
わたしは、甲板長のもとに配置せられ、正規の水夫たちにまじって甲板を削ったり、ペンキな洗い落したりすることになった。
 わたしは、ジェノアとおさらばできて、嬉しかった。

ship[1]



 大西洋を横断している途中で、わたしは、一等航海士のシャツを洗ってやった。
それで、かれが25セントくれた。
ながいあいだお目にかかっていなかった最初のアメリカの金だった。


11月24日早くに、マンハッタン島の先端のドックに船が入ったとき、わたしは、もらったその25セントのうちから5セントのニッケル白銅貨を取り出して、ハーレムまで地下鉄に乗っていった。
 10ヶ月前わたしは、7ドルの金を持ってパリに着いたのだった。
わたしは、フランスに、イタリアに、それからスペインに行ってきたのだった。
それから、地中海をわたる大旅行のあと、わたしは25セントの金を持って帰国した。
だから、わたしの初めてのヨーロッパ旅行にかかった費用は、きっかり6ドル75セントだったのだ!
 ハーレムでわたしは、巻タバコを1個買った。
それでもまだ、5セントのニッケル白銅貨が1枚のこっていた。

liberty_island.jpg






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