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ラングストン・ヒューズのジェノア 1

ラングストン・ヒューズのパリ 1

 フランスのパリで、ナイトクラブの職を得た21歳のラングストン・ヒューズ。
 それから、数ヶ月間、パリで働くこととなる。
 ただ、働いていたナイトクラブは、客の入りがあまりよくなかったので、その夏のあいだ閉店して、店の内装をリニューアルすることになった。
 だから、そこの従業員も夏のあいだバカンスをとり、再び秋口に戻って、復職しなければならなくなった。
 
 さて、ラングストン・ヒューズ、どうしようか、と悩んでいると、
 同僚のイタリア人、ルイギとロメオが、「もしよければ、一緒にイタリアまで行かないか?実家でゆっくりしていけばいい」と誘ってくれた。
 ラングストンは、イタリアへ一度行ってみたいと思っていたところなので、彼らの誘いに乗せてもらうことにした。

 そして、夏のあいだ、イタリアを十分楽しんだラングストン・ヒューズは、秋の気配とともに、パリに戻ろうと考えた。

 1924年の秋・・・・・・・・
 そこから、再び、ラングストンの放浪が始まる。


 *ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より


・・・・・・・・・・・・・
 おそろしく込みあっている三等車に乗って、イタリアを横切ってパリへ帰る途中、わたしは車中で寝入ってしまった。
わたしは、お金とパスポートとを上衣の内ポケットにしまって、ピンで留めていたのだった、―― その昔、子供だったころ、トビーカあるいはキャンザス・シティにいる母親を訪ねていくわたしを、ローレンスで列単に乗せてくれるときに、わたしの祖母がいつもこうやって大事なものを守るんですよ、と教えてくれた方法だ。
当時、この目的のために、わたしは、旅をするときにはきまって、いつでも直ぐに使えるようにと、安全ピンを備えていた。
それでわたしは、車中にすわったままで、ぐっすりと深く眠っていたのだ。
目をさましたとき、安全ピンもパスポートも、それにお金も、すっかり失くなってしまっていた!何者かにすられてしまったのだった。

 盗難に遭ったあと、わたしには、ズボンのポケットに残っていたたった数リラのお金しかなくなってしまった。
わたしは、ジェノアで列車を降りた。
パスポートがなくては、それに金もないとあっては、フランスに入るわけにはゆかなかった。
そこでわたしは、アメリカ領事のもとへ出かけていった。
領事は、親切な物事を気にかけないひとだったが、しかし、わたしのためにできることは何もないと言い、ただ、わたしが船乗りであったところから、故郷まで辿り着けるように、船に乗り組むのを - わたしを雇ってくれるような船があれはの話だが―― 署名承認することができるだけだと言った。
かれは、イタリアで立往生したアメリカ人たちを援助してやれるような資金がわたしにはないのだ、と言った。
「さようなら!」かれはそう言って、わたしを立ち去らせた。

 そんなわけで、わたしは、市の簡易宿泊所であるアルベルゴ・ポプラーレヘ出かけていき、一泊二リラでそこに泊まった。

genovaH.jpg

そこは、高い数階の大きな近代的な建物で、各部星に幾つかずつのベッドが入っている金網のはまった獄舎のような清潔な部屋をいくつも備えていた。その建物には、とても変わった規則があった。
たとえ一文の金もなくても、十日間はそこに滞在できて、ベッドで眠れるのだった。
それから、十日が経ってもやはり金がなくて、どこへも行くところがなければ、さらに十日間、地階のコンクリート床で眠ればよいのだった。
だが、その後は、一泊二リラという規定の料金を支払うか、さもなければ、そこを完全に引きはらわなければならないことになっていた。

genovaH2.jpg

わたしは、そこを退去しなければならないようには一度もならなかった。
それというのも、時折りわたしが、何日聞かの仕事にありつけたからだったが、その仕事というのは、船から遠く離れて、まる一日、痛飲して歩きたいと思っているどこかの船乗りの代りに働いてやることなのだった。
 アルベルゴ・ポプラーレに泊まっているものたちにとって、ただひとつ困ったことは、昼間その建物に立ち入ることが禁じられていることだった。
そこは、午後の四時に開いて、その夜の宿泊登録が行われ、そして朝の七時まで泊まれるのだった。
それからは、ふたたび夕方になるまで、宿泊者はのこらず外に出ていなけれはならなかった。
それで、わたしは、降っても照っても、海岸通りで暮らしながら、毎日、新鮮な空気だけはたっぷり吸った。

わたしは、ジェノアの浜辺をうろつきながら物を拾う浮浪人に- 帰ってゆくべき船もなければ、はっきりした収入の途もない水夫に- 落ちぶれてしまった。

 食べないですます日もあったが、心配しなくてすむような日ときたら、まずなかった。ヒッチハイクして、トリノまで辿り着いてやろうか、それともデゼンザーノに引きかえしていってやろうか、と考えてみた。
だが、そのころもまだルイギとロメオがパリに帰っていってないという保証はなかった。それに、よしんばかれらがまだあそこに残っていたとしても、すでにかれらからさんざん手厚いもてなしを受けている身でありながら、その上さらにかれらやかれらの家族たちの招待にあずかれるものと思うのは、厚かましく不躾なことに思われた。
さらにまた、どうしてかれらにわたしが新しいパスポートを手に入れるのを手伝ってもらえようか? パスポートを手に入れるには、十ドルも費用がかかったうえ、ながい時間とたくさんの宣誓口供書が要ったのだから。
 
事によったら、もし仕事が見つかれば、しばらくイタリアにこのまま居つづけるかもしれないな、とわたしは思った。けれども、ジェノアには、あぶれたイタリア人たちにとって、そしてもちろんわたしにとっても、仕事が全然なかった。
それにわたしには、誰ひとり知りあいがいなかった。
イタリアでわたしの知っている唯一の名前は、ゴードン・クレイグという名前であった。ものの本で、かれがフィレンツェに住み、そこで仕事をしているということを読んだことがあったからだ。
もちろん、わたしはフィレンツェがとても見たかった。
それで、もしかしたらそこまで歩いていって、ゴードン・クレイグに何か仕事を・・・ブルースにそのこしらえかたを教わったことのあるメリーランド風のチキンをもしかれが好きなら・・・・事によるとコックの助手の仕事ぐらいなら・・・・もらえるように頼めるかもしれない、と考えた。
だが、このような考えを思いついた週、ジェノアはどしゃ降りの雨だったので、わたしは、目論みどおりに徒歩で出発することはできなくなってしまった。
 しかし、飢え死にするということは、かなりむずかしいことだ。
わたしは、ジェノアで、生まれてからまだ経験したこともないようなひもじい思いをした(ただ、何年か後にマドリッドで、内乱の時期にこのときと同じような日にあったことはあるけれども)。
ときどきわたしは、空腹のあまりパン屋の窓とか店の陳列箱の前にたたずんで、何か口に入れるものを盗んで、しかも引っ捕えられて豚箱に放りこまれるようなことにならないですむ方法がないものかなあ、と思うことがあった。
だが、わたしには盗みをやれるような心臓はなかったし、それに盗まざるをえないほどの絶体絶命の状態に立たされたこともなかった。というのは、飢えが頂点に達するちょうどそのころになると、いつも何かがもちあがるような気がしたからだ。
第一に、わたしは、港での片手間仕事にありつくことでは運がよかったし、第二には、まもなくわたしは、一群のやりくり上手の仲間たちを見つけ、かれらと一緒にほっつき歩いたからだ、・・・・かれらは、一国だけでなくあちこちの国で波止場をうろついた経験の持主だったし、また、ほとんど毎日てきぱきと数リラかの金をかせいでくる方法を知っているのだった。

(1833-1895)[1]




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく




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