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ラングストン・ヒューズのパリ 5

ラングストン・ヒューズのパリ その4

*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より

 

 ソーニャは、フォンテーヌ街にあるゼリィの有名なナイト・クラブで、踊り子の仕事のロを見つけた。
ショウに出るダンサーとしてではなく、おとくい客を相手の踊り子としてであった、 - つまり、あちらこちらのテーブルにすわって、客たちを相手に踊ったり、かれらにすすめて、もうひとつ、いかが、――― ついでまた、もうひとつ、いかがと、――― 註文を、たいていはシャンペンの註文をさせるのが、彼女の仕事だった。
彼女は、給料はもらえなかったが、一本以上のシャンペンを客に取らせることができたら、シャンペンひとびんごとに幾らという割合で手数料を受けとった。その結果、彼女は毎晩、何杯となくシャンペンを飲んだ。それというのも、彼女が手つだってシャンペンのびんの空になるのが早ければ、それだけ早く次のひとびんのシャンペンが現われるし、注音ぶかい給仕人によって電光石火のごとくすばやくそれが抜かれ、おまけに帳場の彼女の欄のところに追加の手数料が算入されるからだった。

Paris_2_041[1]

 クラブの踊り子たちは、たいてい、毎夜のようにシャンペンを飲むのをほんとうは楽しんでいたわけではなかったので、彼女たちは、機会があればシャンペンを氷のバケツにどっと流して棄ててしまうか、あるいは給仕人たちが、もし客が抜け目のない質でなければ、まだ半分ばかり中身の残っているびんをそのまま運びさってしまっては、彼女たちの手助けをしてやるのだった。そして、そのびんが目の前からみえなくなると、かわいい踊り子は、溜息をつきながら、こう言うのだ。
「今夜はとってもむせるわね、ねえ、あたしたち、もう一杯だけ、シャンペンを飲んでいけないでしょうかしら?もしもその客がすこしでも気のいい男であれば、もうその時にはすでに、まるで魔術のようにかれのテーブルの上の氷バケツのなかに現われていて、命令さえ下ればキルクが抜かれるばかりになっているもう一本、二百フランもの値段の1クオート容量のコルドン・ルージュを、とうぜん給仕にうなずいて開けさせるだろう。
 夜によっては、ゼリィのナイト・クラブは大いにもうけたが、また、そうでない夜もあった。
そんなわけで、ソーニャの収入も、とてもまちまちだった。そのナイト・クラブは大きかったし、ひじょうに多くの女の子たちがそこで働いていたから、彼女の収入は決して大きくはなかった。それに、夏の季節ではなかったので、アメリカ人の観光客たちが落していってくれる金が、収入を伸ばすというわけにもゆかなかった。
それで、しばらくしてソーニャは、別のもっと小さなふたりしか踊り子のいないクラブで働くようになった。
それは、わたしたちふたりがたがいに知りあって三週間ぐらい経ってからのことだった。
 そしてわたしは、まだ仕事の口を見つけてはいなかったし、じぶんの持ってた服は、あらかた売ってしまっていた。
 ところが、ある朝、夜明けに、彼女は帰宅すると、嬉しそうな叫び声をあげながら、わたしを起こした。
「ねえ、これを見て!」彼女は叫んだ。彼女は、ハンド・ハッグを開けた。と、そこには、お金がいっぱい入っており、それらのお金が外へ落ちて、ベッドのいたるところに散らばった。
 「どこで手に入れたんだい?」わたしは眠たそうに尋ねた。
「もらっちゃったの、」と、彼女は言った、「あるデンマーク人からよ、どのみち、あのひとむだづかいしてしまう金だったんですもの。」 

NightMontmartre[1]

 パリにはじめて見物旅行に来ていたあるデンマーク人が、ソーニャにすすめられて註文した8本ものシャンペンでへべれけに酔ってしまったらしい。そこで、看板になったときに、彼女は、親切にもこの男が勘定を払うのを手つだってやりもした。そして、そうやっているうちに、なにげなしに、そのデンマーク人のお金を大きく一掴み、勝手に取ったのだ。
「みんなちょうだいしちゃったってわけじゃないわ、」と、彼女は言った、「ほんのわずか要るだけですもの。」
 彼女は、金が手に入ったことで、とてもうれしそうだった。
わたしも、そのとおりだった。
そこで、わたしたちふたりとも身仕度を整え、床屋に出かけてゆき、髪を刈ってもらった。わたしは、靴をみがいてもらい、ソーニャは、マニキュアをしてもらった。
それからわたしたちは、プラース・ピギァールの、あるカフェでランチを食べた。そのあと、ふたりは、プールヴァールに映画を観に行った、パリでのわたしのはじめて行った劇場だった。そして夕暮れどきに、わたしたちは、モンマルトルの演奏家たちが午後おそく徘徊する通り、ブリュイエール街にある黒人たちに〈蚤の穴〉と呼ばれている小さなカフェのところまで戻っていった。
 そのカフェは、ひとで込みあっていた。わたしたちは、ブランデーを取って、そこから通りがながめられる大きな窓のちょうど内側のところにすわっていた。と、ちょうどその時、ふいにソーニャがテーブルの下にもぐりこんだのだった。
 びっくりして、わたしは、彼女が気を失ったんだと思った。だが、そうではなかった。彼女は、気を失ったのではなかった。テーブルの下の床にすわって、彼女は、あたりのひとびとみんなに静かにして、じぶんにかまわないでくれと、身振りで示していた。
彼女はわたしに、例の大男のデンマーク人が、ちょうど窓の外のところを通りかかってるのよ!とささやいた。
その男は、ぶらぶら歩きつづけていき、丘を下って黄昏のなかにまぎれこみ、見えなくなってしまった。

paris1.jpg

 そのころはもう、わたしがパリに来てすでに一カ月が経っていたが、あい変わらずわたしには職がなかった。
わたしは、仕事の口を求めてさまざまなところへ出かけていったが、そのなかには、フランス人の従業員たちから追いかえされんばかりの日にあったところも幾つかあった。ことに、ある大きな建築現場に行ったときなどひどかったが、そのときには、そこの怒った労働着たちが、一瞬わたしに雨あられと煉瓦を投げつけてやりたい、というくらいの気持になっているのがわたしに感じとれた。
 「やぼすけめ!」かれらは絶叫した。「きたならしい外人野郎め!」
 そのころ、フランス人の労働者たちのあいだには、烈しい排外的感情があったようだ。というのは、非常におおくのイタリア人やポーランド人がパリにやってきて、十分な賃金をもらってはいないフランス人たちよりもさらに低い賃金で働いていたからだ。わたしはイタリア人でもポーランド人でもなかったが、かれらには、わたしがどこかの外国人であることはわかっていて、わたしが気に入らなかったのだ。それで、さんざんわたしを罵倒したのだ。

 そのときもまだ、マッキースポートの母親からは手紙はなかった。いわんや、二十ドル送金したという電報など、来はしなかった。
ようやく、故郷から一通の手紙が届いたが、その内容ときたら、一枚の紙のうえに書かれたものとしては、それほど長いものは見たこともないようなさまざまな災厄の一覧表であった。
 第一に、母はこう書いていた。わたしの継父がひどい肺炎にかかって町の病院に入っているということ。彼女自身も仕事はなくて、お金などないということ。わたしの弟が、けんかをやらかしたために、退学させられたということ。さらに、こういったすべてのことのほかに、マッキースポートで河が増水しているということ。水はもうすでに、戸口のところで膝まで没する深さに達しており、もしもこれ以上に水嵩が増すようなことになれば、彼女は漕ぎ舟を見つけて、家を移らなければならないとのことだった。階下に住んでいたユダヤ人家族は、親類のところに滞在するために避難していったとのことだった。しかし、母には行き場所がなかった。そして、二十ドルはおろか、二セントの切手すら送ってはや
れないとのことだった。それにまた、こうも書かれていた。はるか遠くのフランスくんだりで、いったい何をやってるんだね? どうして、堅気のひとびとのように家に居て、就職して、働きはじめ、かあさんを助けてはくれないんだね? -船乗りになったりして、世界中をぷらつき回りながら、パリから金を送ってくれなんて手紙を寄こしたりしないで。
さて、わたしは、いい気持じゃなかった。
いったいどうやって故郷に帰ったものかしら、いったいどうやってかあさんは、あんなにも悩みをかかえて、やっていくのかしら、とわたしは思った。
 さいわい、その手紙が届いてから二、三日して、わたしはじぶんである仕事を見つけた。わたしは、モンマルトルの大きなナイト・クラブはすべて当ってみていたので、こんどは、小さなナイト・クラブに当ってみようと決心した。そこで、ある日、宵のうちに出かけていった。わたしは、フォンテーヌ街に門番(ドアマン)のいないある小さなクラブを見つけた。わたしは、中へ入っていって、そのクラブの持主に面会を求めた。そのクラブの持主は、黒人の婦人でマルチニック島出身の女であることがわかった。
わたしは、彼女にじぶんの知ってるいちばんりっばなフランス語で丁寧に話しかけ、門番の必要はないでしょうか、と尋ねた。
ちょっとの間、彼女はわたしを見つめていたが、けっきょくこう言った。
「いいわ!5フランに夕食つきよ。」
もちろん、わたしは承諾した。
すぐさま、彼女は、料理場への道を教えてくれた。そしてその料理場で、わたしは、料理人から食物をあたえられた。
そしてその夜十時に、わたしは、フォンテーヌ街に面したそのクラブの戸口の外のじぶんの持ち場についた。
料理人からあたえられたたっぷりの量の夕食を食べ、その夕食と一緒に出された大びんいっばいのぶどう酒を飲んだおかげで、わたしはむやみに睡たくなってしまい、それで、ドアの外の通りに立ったまま寝入ってしまった。
どうにもしようがなかったのだ。
ほとんど夜どおし、わたしは眠ってしまった。

ピガール

 わたしは、制服を持っていなかった。
けれども翌日には蚤の市で金モールの飾りのある青色の帽子を買ったので、それをかぶると、ちょっと威厳がそなわったようだった。
わたしの給料は、一晩につき五フランで、アメリカの金で二十五セントよりも少ない額だったが、それでもパリにいるわたしにとって、もっとましなことがやれるようになるまでには、それはたいした助けとなった。
 
わたしがマルチニック島生まれのその婦人のために働くようになってから間もなく、ソーニャは、ル・アーヴルで踊る契約を取りつけた。
 それで、三月のある雨模様の午後に、わたしは、彼女にさよならを言うために、彼女と一緒にサン・ラザール駅に出かけていった。
彼女は、泣いた。
そしてわたしは、彼女の泣くのを見ると、いい気持がしなかった。
彼女は、すばらしい友だちだった。
わたしは、彼女が好きだった。

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長い列車が出て行くとき、彼女は、車窓からわたしに手をふった。
わたしも、彼女に手をふってこたえた。

2081523342_96c2cfab8e[1]



そしてその後、ふたたび彼女に会うことはなかった。



当時のモンマルトル(1925年)
Paris_Montmartre_in_1925.jpg


*ラングストン・ヒューズのイタリア・ジェノア 





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