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ラングストン・ヒューズのパリ 1


七十五セントのブルース ラングストン・ヒューズ/木島始 訳

どっかへ 走っていく 汽車の
七十五セント ぶんの 切符を くだせい
ね どっかへ 走っていく 汽車の
七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ

どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ
ただもう こっから はなれてくんだ。
 
いい子だな ちょい 好きになるってのを おくれ、
でも ながすぎねえように してくんな。
ちょい 好きになるっての、いい子だな、でも
ながすぎねえように してくんな。
ちょっとのま 甘えようにしてくんな、おめえの好きになんのはな、
それなら ごろごろ 乗ってけるんだ。
 
ごろごろ 乗ってかなきゃな?




黒人詩人、ラングストン・ヒューズの有名な詩だ。
特に、木島始氏の訳がすばらしい。

また、この詩でわかるように、ラングストン・ヒューズの人生は、「旅」そのものであった。
いや、「旅」が人生であったのかもしれない。

hughes[1]



「旅人」としてのラングストン・ヒューズの自伝を紹介する。
詩人の原点がわかる気がする。
1924年のパリ。21歳のラングストン・ヒューズ。
以前、記した日本の詩人、金子光晴のパリと比べて読むととてもおもしろい。
金子光晴は、1929年のパリであった。
日本人のパリとアメリカの黒人のパリ、
まったく交わることのないパリのような気がする。
ただ、どちらも、まったく無一文で、パリにやってきた。


 21歳のとき、ラングストンヒューズは、ニューヨークとオランダのロッテルダムとのあいだを通う定期貨物船の水夫の仕事をえた。
船長も司厨長もいい奴だったので、しばらくここで働こうと彼は思ったのだが、どうもこの航海中不幸が起こるので、「わたしは、ことによるとおれたちの船には不運をもたらすものがあるのかも知れないぞ」と思い、ロッテルダムでこの貨物船を降りることにした。

1924年2月の冬、ラングストンヒューズは、労賃25ドルを受け取ると、パリ行きの三等夜行列車に飛び乗った。



*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より


 わたしは国境に着いたときの、わくわくするような感激をけっして忘れはしないだろう。真夜中に、フランス人の税関検査官たちが、わたしたちの乗っていた三等客車のたくさんの窓という窓をことごとく開け放ちながら、そして、その小さな駅のあたりに渦巻いていた雪と冷たい夜風を入れながら、入ってきた。わたしは、フランスに着いたのだった。
 国境よ!
 フランスよ!
 列車は一路パリへ。夢よ、ほんものになれ。

モンマルトル
 
 わたしの持っていたお金は、ほとんど全部、切符とフランス入国査証とに費やされてしまっていた。2月のある朝はやくに、わたしは、パリの北停車場に着いたが、ふところには7ドルのお金しか残っていなかった。パリには知りあいはひとりもいなかった。ヨーロッパ全体で、ロッテルダムに住んでいる例の夜警をしているオランダ人の老人の家族いがいには、ひとりとして知りあいはいなかった。しかし、わたしは、その冬の残りを、パリで過ごそうと決心していたのだ。
 わたしは、手荷物一時預り所でかばんをあずけると、駅でコーヒーを飲み、ロールパンを食べた。高等学校で学んだじぶんのフランス語は、たいして役に立たないということ、そして、ひとに話しかけられると、それが何のことかさっぱりわからないということが、わたしにわかった。みんな、あまりにも早口に話したのだ。けれども、フランス語を読むことはわたしにはできた。
 わたしは、駅から外へ出ていき、オペラという標識のあるバスを見かけた。わたしは、オペラ広場はパリの真ん中にあることを知っていたので、そのバスに乗り、仕事を探すまえに、いや事によったら飢え死にするまえに、ちょっと見物してやろうと心に決めて、そこへ出かけていった。オペラ広場に着いたとき、湿った粉雪が降っていた。

cafe_de_la_paix_en_hiver[1]

出勤途上のひとびとが、ひっきりなしに地下鉄から流れ出ていた。わたしの右手にも左手にも、広々とした並木路(グラン・ブールヴァール)が、いくすじも延びていた。わたしは、通りの向いを眺めた。と、カフェ・ドゥ・ラ・ペが見えた。前方は、ヴァンドームだった。わたしは、ペ通りを歩いていき、曲がり、さらにどんどん歩いていき、そしてついにコンコルド広場に出た。わたしは、シャンゼリゼを、そしてまた、雪をとおしてはるかかなたにかの有名な凱旋門を、見かけた。

paris_Cafe_de_la_Paix.s[1]

 ほんとうに、わたしは感動でぞくぞくしてしまった!シャンゼリゼ通りを歩いてみようか、それともチュイルリー宮殿の前を通ってセーヌ河畔の古本の露店やノートルダム寺院を見学しようと思って、セーヌ河に沿って歩いてみるほうを、わたしは選んだ。だが、けっきょくは、ルーブル博物館に落着き、ヴィーナスを見ていた。
 ルーブル博物館のなかは、通りよりも暖かだった。そして、数かずのギリシャの彫刻は、穏やかで、愛想がよかった。それらの彫刻にむかって、わたしは、こう言った。「もしもあなたがたが、これまでと同じくらいパリにずっといられて、しかもいいかっこうをしてられるんなら、ぼくだって残りの7ドルで、もうしばらくパリに留まって、それでうまくやれると思うよ、」と。けれども、ルーブル博物館から外に出たとき、わたしは、くたびれ、ひもじかった。その夜をどこで明かすつもりなのやら、どこをうろついて安ホテルを探せばよいのやら、わたしには、かいもく見当がつかなかった。そこでわたしは、誰か話しかけられるひとはいないものかと、探しまわりはじめた。ほんとう言うと、パリの街頭で黒人を探しはじめたのだ。
 運良く、わたしは、門番の制服をきたひとりのアメリカ黒人にたまたま出くわした。かれは、おれの知ってるアメリカ黒人ってのは、たいがいモンマルトルに住んでいて、劇場やナイト・クラブで働いてるミュージシァンたちだな、とわたしに言い、モンマルトルへ行く道を教えてくれた。わたしは、歩いた。ロレトのノートル・ダムを通りすぎ、さらにどんどん進んでいって、丘を登っていった。四時頃わたしはモンマルトルにたどりついた。

Paris_Montmartr.jpg

そのころ、モンマルトルの住人たちの多くは、ちょうど起きあがって、朝食をたべるところだった、というのは、かれらは夜どおし働いたからだ。わたしは、かれらがあまり機嫌がよかったとは思わない。というのは、わたしは、幾人かの黒人ミュージシァンたちが食卓についてコーヒーを飲んでるのが見えた、とある小さなカフェに入っていったのだから。わたしは、かれらに話しかけ、こう言った。「パリに着いたばかりなんです。で、どっか泊れるところと仕事を探してるんですが。」    
かれらはわたしに苦い顔をした。ようやく、そのうちのひとりが、こう言った。「なるほど、で、どんな楽器がやれるんだい?」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく


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