Home *  * All archives

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
tb: -- |  cm: --
go page top

レバノン・ベイルート・東京レストラン

 
 第二次世界大戦後、独立国家が多数誕生した。その過程で、戦争になったところもあった。アフリカのように、独立後、内戦になったところもあった。
また、冷戦へと続くアメリカとソ連との駆け引きのせいで、分断を余儀なくされた国もあった。
 それら過程のなかで、多くの武器が使用され、多くの市民の血が流れた。
 
多くの不条理を解決しようとした戦争だった。
しかし、また小さな不条理も生み出してしまった。
理屈で解決できない憎しみを生み出してしまった。

こんな世界のなかで、不条理を正義と最初から偽って暴走した戦争があった。
みなが不条理のない世界にしようとしているなかで、自ら不条理をつくろうとする戦争。
それが、パレスチナとイスラエルの戦争である。

パレスチナ問題について、学者が色々と解説しているが、この問題に解説がいるのだろうか?
解説がいらないぐらい、この問題の善悪ははっきりしている。子供でもわかる世界のルールであり、社会のモラルであろう。
人のものを力ずくで盗ったらいけない!
どう考えても、パレスチナ人の土地である。
そこには、何世紀にもわたるパレスチナ人の暮らしや伝統が生きづいていた。
(私はイスラエル国を認めない。イスラエルを認めるしかもう解決方法はないと専門家はいうが、悪いことをなぜそのように認めなければいけないのかわからない。私の解決方法は、どうぞ元の国へお引取りください!である。前に住んでいた国々が責任を持ってイスラエル人(ユダヤ人)を引き取るべきである。失礼な言い方になるが、人殺し機能のついた不良品(輸出品)は引き取ってもらう!)

このイスラエルの独立によって生み出されたパレスチナ難民の一部は、となりのレバノンにも住み着いた。そこには、大きな難民キャンプがあり、同時に憎しみでいっぱいのパレスチナ人たちの復讐のコミューンでもあった。
レバノンは多宗教、多民族の国家である。
ここに多くの世界遺産のあることが、その証拠である。
そのなかで、イスラム教やアラブ人は多数派を占める。
イスラム教は同胞のパレスチナ人を助けようとする。
イスラムではないが、同胞アラブ人を助けようとするパン・アラブ主義者もいる。
レバノンで一番金持ちのキリスト教徒(マロン派)には、不満がつのる。
 
 このようにして、1975年、中東のパリといわれたレバノンのベイルートで内戦が始まった。
ベイルートという世界有数の近代、金融都市ではじまった稀有の戦争。
この戦いはその後長く続き、ベイルートは、銃創と崩落の町へと化していった。
 イスラエル国家の設立さえなければ、絶対にありえなかっただろうレバノン内戦!

 結局、1990年近くまで内戦が続き、その後も散発的な事件が各所で発生している。


私は、学生の頃、レバノンの旅行記を読んだ。
そこには、この国の自然の美しさ、国旗にも使われているレバノン杉の雄大さ、レバノン女性の美しさ、レバノン料理こそ一級のアラブ料理というのような文言が記され、必ずや行かなくてはという想いに私は駆られた。
想い立ったら、すぐ行きたくなる性分だった(今は違う)ので、飛行機でとりあえず、シリアまで行ってみた。
ダマスカスのタクシーの運転手の情報では、内戦は小康状態なので、ベイルートまでいくことが可能だという。その運転手の言葉を信じて、シリア=レバノン国境まで行ったが、やはり、国境警備は通過させてくれなかった。
しかし、今からおもえば、行かなくて良かった。
小康状態どころか、かなり大きな戦闘をしている頃だったのだ。

そういう思いがあったから、その後、1998年にベイルートを訪れたときは、うれしかった。
ただ、私が読んだ旅行記のような世界は、もうどこにも見られなかった。
町は埃っぽく、殺伐としており、人間はギスギスとしていた。車はすべて暴走族みたいに飛ばしており、道路を渡るのが一苦労だった。物価も先進国並に高く、何よりも美人がいなかった。食事だげはとてもおいしかったが・・・
 レバノン料理はとても美味しかったが、以前、インドのベナレスの安宿クミコハウスで暇にまかして読んだ立松和平氏の『レバノン極私戦』に登場するベイルートの東京レストランの女主人に一度会ってみたかった。


 そして、実際にお会いしてみると、立松和平氏のいったとおりのとても魅力ある叡智あふれる女性であった。
その後、婦人と話したいばかりに、何度か通った。
立松氏はカツ丼がうまいと書いていたが、私はレバノン料理を食べたあとにいくものだから、そんなにたくさんは食べれない。カウンターに座って、鮨をつまみながら婦人と話した。

 内戦中もベイルートに残り、ベルギー人のご主人とできる限り、お店を開いていたそうだ。
何年か前、知人から、東京レストランのマダムが亡くなったことを聞かされた。
私がお会いしたときでかなり高齢だったと思うので、天寿を全うされたのかもしれない。
ご苦労様・・・・

婦人の言った内容で印象的だったのは、次のような言葉である。
「内戦のとき、このあたりにも、逃げ遅れたキリスト教徒がけっこういたのだけど、イスラムの民兵は、みんな助けてあげるのよ。この人たちは関係ない、って。
けれど、あちら側、キリスト教支配地区にいたイスラムは、みな殺されちゃったわ。
キリスト教徒は残酷だったわねえ・・・・
イスラム教徒はほんとうに優しいのよ・・・」


1984年(立松和平氏)

『レバノン極死戦』立松和平著 広河隆一写真 河出書房新社発行(1984年)

・・・・・海はすっかり黒くなっていた。空のほうがまだわずかに明るかった。これから私は東京レストランにカツ丼を食べにいくつもりだ。
 東京レストランは海岸通りからハムラ通りへ20メートルほど上がったところにある。店の前には焼けて赤錆びた車が何台も放置されていた。車体にはいくつも貫通銃創がある。店の正面の灰色のモルタル壁は銃創がならび、20まで数えたところでわからなくなった。東京レストランのカツ丼は量が多くてうまい。その宵の照明はテーブルに立てた蝋燭だった。
「ごめんなさいね。ジェネレーターが壊れちゃって。会社が東ベイルートにあるものだから、なかなかきてくれないのよ」
 女主人の日本人バン・ニューウェルブルグ・ツユさんは自らが料理したカツ丼を私の前に置いていった。私は木の香のする割り箸を割り、カツ丼にかぶりつく。
「いいですよ、ベイルートらしくて」
「本当にねえ。明日のことがわからないところだから。一日一日が勝負よねえ」
 バンさんは白髪の夫人で、戦争の下にいることを忘れさせてくれるほどに物腰に落着きがある。厨房に見え隠れするのはベルギー人の御主人だ。イスラム左派が一斉蜂起した2月6日にはこのあたりで熾烈な市街戦があったが、東京レストランは6日と7日の2日間店を閉めただけだった。窓ガラスがなくなった8日に店を開けたものの、さすがに客は一人もこなかった。料理を教えていたレバノン人従業員も全員辞めてしまった。
 1974年の内戦以前、ベイルートにはビジネスマンや外交官やジャーナリストや留学生等日本人が3000人いて、東京レストランは日本人たちの中心的社交場だった。今は日本人ジャーナリストは決死の脱出をしていってしまい、日本大使館も閉鎖になった。当然観光客はいるはずもない。西ベイルートにはアメリカ大学の留学生一人、レバノン人と結婚した女性二人、バンさんと、日本人は四名しかいない。東ベイルートの四名とあわせると八名である。その中にはアル中になった主婦もいる。日本人だけを相手にしたレストランではないにせよ、心細い商売だ。それでも税金というものがかからないから商売はやりやすいのだそうだ。
「まだ東よりいいのよ。カタエブは商売しているところに重税をかけるから。税金を払わないと店に爆弾を投げるのよ。カタエブがここにくると、モスレムの男は殺されるかチンチン切られるかどちらかだって、みんなそう思ってるわ」
 2月6日、店のすぐ下の海岸通りでは、政府軍とPSPとの間で激戦があった。沖のアメリカ第六艦隊ケネディが政府軍掩護の艦砲射撃をした。艦砲射撃は地上軍の砲撃とはくらべものにならないほど地を響かせ、夜空は照明弾を打ちあげたかのように明るくなって、遠い山のほうで落ちる音まで聞こえた。隣のロードホテルに艦砲射撃の砲弾が落ちた。そういえば東京レストランは海側からはホテルの陰になっている。ホテルの窓から、トウキョウ、トウキョウと泣き声で叫んでこちらに逃げてこようとするのだが、動くものはすべて即座に撃たれるのででられなかった。店の前で車十一台燃えた。同じビルにいる人が自分の車の火を消すためでようとすると、何処からともなく弾が飛んできた。ガソリンが買いにくいので常に満タンにしておく習慣が災いしたのだ。向かいのガソリンスタンドはロケット弾が落ちて大爆発したが、風向きのおかげで火も煙もこなかった。
東京レストラン
「戦闘が激しくなると、店の地下室に隠れるのよ。日本には家もないんだもの、帰れないわ。ここが私の家なのよ」
 私の向かいに坐って蝋燭の炎に照らされたバンさんはこういった。大多数の人は地下室で戦火が静まるのをひたすら待っているしかない。地下室のない人は窓辺から少しでも遠い浴室などにマットを敷いて横になっている。
 PSPドルーズ兵がきて店の入口の戸を開けておいてくれといった。それでバンさんにも戦況がわかったのだ。劣勢に立った海岸通りの政府軍はすぐに白旗を掲げ、イスラム左派に合流して先程まで味方だった政府軍に銃口を向けた。民兵返りをしたのだった。政府軍が後退して前線は移動した。嵐はひとまず過ぎたのだった。
 ロードホテルはドルーズ派民兵の宿舎となった。兵士たちはホテルで休息をとっては前線にでていったのである。東京レストランは平常通りの営業をはじめた。ある夜、国外にでていく人の送別会で客が騒いで写真を撮っていると、フラッシュに驚いた兵士が三人隣のホテルからはいってきた。兵士はフィルムをよこせといったが客の一人がさげているホメイニ師のペンダントを見て笑い、その場は急になごやかな雰囲気になった。その時バンさんの飼犬が兵士に吠えかかったのだ。咄嗟に兵士は犬を射殺した。銃弾の破片が一人の客の腹にあたった。兵士は怪我をした人を病院に運んでいった。しばらくして、PSPの少し偉い人が謝罪にきた。
「レバノン人は何をしても普通謝らないのにねえ。本当に謝られたことなんてはじめてだったわねえ」
 バンさんは感心した風に笑った。話の途中で電気が通じ明るくなっていた。バンさんはテーブルひとつひとつにある蝋燭を吹き消しながら話してくれたのだった。



どうせ襲われるならキリスト教徒よりイスラム教徒の強盗のほうがましだと、西ベイルートの人はいっている。
キリスト教徒はそこにあるものは全部持っていくが、イスラム教徒の強盗はこれを持っていかれたら明日からどうすればいいんだと懇願すれば、当座困らないだけは残していってくれるのだそうだ。もし強盗に遭遇したら一応は頼んでみることだと私はいわれた。イスラムの世界では昔から貧者に恵むバクシーシの伝統がある。税金は上に払うものと下に払うものとの二種類があるという発想である。貧者への喜捨は社会への税金を払っているというわけなのだ。



2006年(イスラエルはまだこんなことをしている)

tb: 0 |  cm: --
go page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://intouch.blog56.fc2.com/tb.php/144-17aa5658
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
go page top

新着記事+関連エントリー

カレンダー

カテゴリ

最新コメント

プロフィール

ブログ翻訳

旅行業の本

添乗に役立つ本

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。