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「哲学者・ニーチェへの道」ツアー

 

 哲学者・ニーチェは、漂泊することで、新たな哲学を生み出した。
列車に乗り、ただ歩く。
ニーチェの歩いた道をあなたも歩いてみないか。
私たちもニーチェになれるかもしれない!

ただ、ニーチェは、最後は発狂して、死んでいったが・・・・
ワーグナーを愛し、ヒトラーに影響を与えたニーチェ。

wagner_cosima[1]


「あなたもニーチェになれる!」15日間のコースを考えてみた。
列車を乗り継いで、一人旅で行って見よう!
ただ、発狂したときのために、しっかりと保険をかけて!


旅するニーチェ リゾートの哲学旅するニーチェ リゾートの哲学
(2004/05/25)
岡村 民夫

商品詳細を見る


下記は、岡村民夫著『旅するニーチェ リゾートの哲学』を参考にした。



           『哲学者フリードリヒ・ニーチェの道・3大散策路』15日間  
                          哲学者フリードリヒ・ニーチェの道

日程
観光内容
都市
1
10:25 成田発(LX161便)―15:55 チューリッヒ着
スイス インターナショナルエアラインズ直行便にて、チューリッヒへ着後、列車にてルツェルンへ(約1:15分Zürich Flughafen―Luzern IR2361 dep17:47-arr18:49)
ルツェルン
2
ルツェルン滞在
ワーグナー博物館、リギ山の登山列車
 
 
ルツェルン
3
列車にて、ルツェルン~サン・モリッツ
Luzern dep 09:35 IR 2326―IR1767―RE1137―St.moritz arr 13:58
*最初の下宿・・サン・モリッツ湖西岸のサン・モリッツドルフ地区
*セガンティーニ美術館
 
サン・モリッツ
4
サン・モリッツ~シルス・マリアへ(12キロ)
*ニーチェの下宿屋(ドゥリシュ家の田舎家)
*エーデルワイス・ホテル(下宿のとなり)
*散策コース(永遠回帰の啓示場所へ・・約1時間・夏の正午に啓示)
 
サン・モリッツまたはシルスマリア
5
サン・モリッツからジェノヴァへ
(午後バスにてルガノ、列車にてミラノ乗換えジェノヴァへ・・約6時間半)
 
 
ジェノヴァ
6
*Via degli Orfici(金銀細工通り)
*下宿先・・サリタ・デレ・バチスチーネ
*市立公園ヴィレッタ・ディ・ネグロ(下宿の向かい側
*下宿~ガリヴァルディ通り~カルロ・フェリーチェ劇場(椿姫、カルメン)~フェラーリ広場
*スタリエーノ墓地(市街2キロ北東、ヴィザーニョ川に面した丘陵・・・散策コース)
ジェノヴァ
7
ジェノヴァから列車にてラパロへ
*下宿・ホテル(海岸通りに建つ)
列車にてサンタ・マルゲリータへ
*〔サンタ・マルゲリータ~ポルフィーノまで散策・・約3時間〕
ラパロ
8
ラパロから列車にてヴェネツィアへ
Rapallo―Venezia(8:36-13:58)
*サン・マルコ広場
*ゴンドラ
ヴェネツィア
9
ヴェネツィア滞在
*ファンダメンタ・ヌオーヴェのパラッツォ・ベルレンディス
*音楽家ペーター・ガストの家(バーゼル大学の教え子)
*サン・ミケーレ島
ヴェネツィア
10日
ヴェネツィアから列車にてトリノへ
Venezia-Torino(9:02-13:09 ES9712)
 
トリノ
11日
トリノ滞在
*カルロ・アルベルト広場(先王カルロ・アルベルトの騎馬像)
*下宿の建物のパサージュとガレリア・スバルピナ
*柱廊(ポルティコ)とポー河
 
トリノ
12日
トリノから列車にてニースへ
Torino-Nice(11:00-15:59)
 
 
ニース
13日
ニース滞在
*ニーチェの小道(ニース~エズ駅)
*ニースの最初の下宿
*第4回滞在の下宿(1886年11月)
 
ニース
14日
午前:ホテル発・・ニース空港へ チューリッヒ乗換え(LX160便)スイス インターナショナルエアラインズ直行便にて、成田へ
 
機中泊
15日
07:50 成田着
 

 


ルツェルン
*ワーグナー邸
ルツェルンのトリプシェン、合計23回も訪問した。
wagner-museum.jpg


オーバー・エンガディン(イン川渓谷上流域をさす)
サン・モリッツ
*最初の下宿・・サン・モリッツ湖西岸のサン・モリッツドルフ地区

サンモリッツドルフ

*セガンティーニ美術館
『曙光』の挿画用の素描「新世紀の告知」1896年

サン・モリッツは、確実にぼくのためになる唯一の場所ですーー毎日、天気の良い日にはここの空気をありがたく思っています。ですから、何度となくここへやって来ることになるでしょう。いまからわかっています・・・1879年7月21日


このいつもうららかな10月の空気のなかで、朝から晩まで悪戯っ子のように楽しげに戯れる風のこの息吹きのなかで、この澄みきった明るさとこのうえなく穏やかな涼気のなかで、すさまじい永遠の氷雪の傍らに何の怖れもなく横たわるこの高原の丘陵や湖沼や森林が全体として醸しだす、優雅なうちにも厳しい雰囲気のなかで、イタリアとフィンランドがひとつに結びついたような、そして自然のもつあらゆる銀色の色調の故郷であるかに思われるようなこの土地で(『人間的、あまりに人間的』Ⅱ・第二部)



houseclouds[1]

シルス・マリア(サンモリッツ南西12キロ)

そのとき私の眼に映ったのは、オーバー・エンガディンがかつて私に見せてくれた日のなかで最高の日であったーー透明で、とりどりの色が燃えるようで、氷と南国とのあらゆる対立、あらゆる中間を含んでいて(『この人を見よ』偶像の黄昏1888年9月3日・・シルスマリアの朝)


*ニーチェの下宿屋(ドゥリシュ家の田舎家)
シルヴァプラーナ湖とシルス湖のあいだの平原の南東側の山際の集落。
2階は、ニーチェ博物館。

Nietzsche-Haus.jpg

*エーデルワイス・ホテル(下宿のとなり)
ニーチェ投宿の宿帳記載あり(1883年)。

優秀な旅館エーデルワイス・ホテルで食事をとっているーーもちろん独りぼっちでね、それから僕の乏しい財力につりあうような値段のね・・・1883年6月末ガスト宛)



Edelweiss is the hotel

*散策コース(永遠回帰の啓示場所へ・・約1時間・夏の正午に啓示)
下宿~村道を左へ~牧草地~シルヴァプラーナ湖の北岸・右へ湖岸沿い~山道~再び湖岸~「ピラミッド型をして聳える巨石」・・やや湖水に突き出している2メートルほどの岩。

forest.jpg

詩シルス・マリア
ここに坐り、われ待ちに待つ、--何を待つということもなく
善悪の彼岸に、ときに光を、
ときに影を 楽しみーーただ戯れのみ、
ただ湖、ただ正午、ただ目的なき時。
そのとき、突如、女友達よ!一は二となりきーーー
ーーーと ツァラトゥストラ わがかたえを通り過ぎぬ・・・


ある日私はシルヴァプラーナ湖に沿って森を幾つか通り抜けていった。スールレイ近くにピラミッド型をして聳えている巨大な岩があり、私はそばで休止した。そのとき、この思想が私に到来したのであった(『この人を見よ』ツァラトゥストラはこう語った)


rock.jpg

シルスマリア


ジェノヴァ

genova[1]

*Via degli Orfici(金銀細工通り)

文献学は、「言葉の金銀細工の技術」・・『曙光』序文


*下宿先・・サリタ・デレ・バチスチーネ( Salita delle Batistine)の途中に建つ黄色い6階建ての建物(8番地)の屋根裏部屋6号室

とても歩きでがある!それに登りだ!自分の屋根裏部屋まで来るのに、屋内で164段の階段を登らねばならないから。そしてこの家自体がとても高いところにある。つまり急勾配で、それが大きな石段となっているため、至極閑静で、石の隙間からところどころ草などが生えているような険しい宮殿通りに建っているのだ。・・(1880年12月5日、私信)


*市立公園ヴィレッタ・ディ・ネグロ(下宿の向かい側)
イタリア式庭園のテラスから眼下にジェノヴァ一望
*下宿~ガリヴァルディ通り~カルロ・フェリーチェ劇場(椿姫、カルメン)~フェラーリ広場

ferrari広場

*スタリエーノ墓地(市街2キロ北東、ヴィザーニョ川に面した丘陵・・・散策コース)

信心深き、心やさしき、いと愛ぐし乙女よ・・詩「スタリエーノ墓地」




ジェノヴァ近郊
ルータ、サンタ・マルゲリータ・リグレ、ラパロ、ポルトフィーノ


Portofino is at the tip then Santa Margarita and RapalloBookmark this member Invite this member to be a friend

ラパロ
*下宿・ホテル(海岸通りに建つ)
壁に記念プレート。
1882年12月、ここから湾めぐりの散策をするあいだに、1881年夏にオーバー・エンガディンで受けていた永遠回帰の啓示を核に『ツァラトゥストラ』第一部の基本構想が結晶。ホテルにて、2月3日から10日間で一気に書き下ろす。
*〔サンタ・マルゲリータ~ポルフィーノまで散策・・約3時間〕
santa margarita di ligure

---午前中私は南へ向ってツォアッリにいたるすばらしい街道を登って行った。笠松のそばを通り過ぎ、はるかに海を見下ろしながら、午後には、健康の許すかぎり、サンタ・マルゲリータからポルト・フィーノの裏手まで湾全体を一巡した。この場所とこの風光をフリードリヒ3世が大いに愛好したと聴いて、私は心にますます親しみを覚えた。1886年の秋私は偶然この海岸へふたたび来てみたが、それはフリードリヒ3世がこの忘れられた小さな極楽境を最後に再訪したときであった。---午前と午後のこのふたつの道で『ツァラトゥストラ』第一部の全体が、とりわけツァラトゥストラその人が、典型として、私の念頭に浮かんできた、いやもっと正しい言い方をすれば、彼が私を襲ったのであった・・・。(『この人を見よ』より)



sun[1]



ヴェネツィア


*ファンダメンタ・ヌオーヴェのパラッツォ・ベルレンディス

今日、新しい住居へ移った。まことにいい場所で、海岸沿いに木陰の長い散歩ができ(約20分)、窓からは広々と海を見渡すことができる。私の部屋は天井まで22フィート、奥行き22フィートで立派な大理石造り、豪華な階段がついている。それでいて一種妙なみすぼらしさがある。・・(1880年3月27日)


部屋が広くて静かなので、眠るのに都合がいい。私はまだヴェネツィアの街に汚されていない潮風を直接吸っている・・(4月2日)


venezia.jpg

〔海岸沿いに木陰の長い散歩・・本島の北東岸中央部のフォンダメンタ・ヌオーヴェ(Fondamenta)を指す。ここはゲーテが賞賛、タナーが描く〕

私の要望どおり、狭苦しいラグーナではなく、海ぎわのように広々として、死者の島が視界に入る。・・死者の島とは、サン・ミケーレ島


*サン・ミケーレ島
共同墓地・・お気に入りの散策コース
venice-san-michel.jpg

『ツァラトゥストラはこう語った』第二部「墓の歌」の舞台「墓の島」のモデル。

「あそこに墓の島がある。沈黙の島が。あそこにはまだ、わが青春の数々もある。あそこへ私は、生の常緑の葉環をひとつ携えていこう。」
このように心に決めて、私は海を渡っていった。--『ツァラトゥストラ』第二部
〔ワーグナーがヴェネツィアで客死、数ヵ月後に草稿〕


*音楽家ペーター・ガストの家(バーゼル大学の教え子)
リオ・デイ・ジェズイッティ(Rio dei Gesuiti)---フォンダメンタ・ヌオーヴェ~カナル・グランデとを結ぶ小運河に面して立つレンガ建物(Calle Nuova 5256)。

僕はここのケーゼリッツの家にいて、ヴェネツィアの静けさのなかで、しばしば理想的なヴェネツィア風でさえある音楽を聴いている。・・・1884年4月30日


私はロッシーニの音楽がなかったらどうしていいかわからなくなるだろうし、それ以上に、音楽における私の南国、すなわちわが親愛なるヴェネツィアの楽士ピエトロ・ガスティの音楽なしにはすまされない。そもそも私がアルプスの彼方(の音楽)というとき、じつはヴェネツィアだけのことを言っているのである。音楽を言い表すための語として、音楽という語のほかに何があるだろうかとどんなに探してみても、ヴェネツィアという語しか見つからない。私は、涙と音楽を区別するすべを知らないーー私は幸福を、南国の、不安な戦慄なしに考えるすべを知らない。



piazza-sanmarc-noon[1]

*サン・マルコ広場
貴金属店が立ち並ぶ柱廊に取り付けられた灯火ーー当時は電灯でなくガス燈ーーのヴェネツィアン・ガラスは、淡いピンク色。  
カフェ・フローリアン、カフェ・クワドリ

サン・マルコの鳩たちと、われ、今ふたたび 相まみえぬ、・・広場は 静けくただずまい、午前は憩いてそこに在り。・・・・詩『悦ばしき知識』


pigeon.jpg

「徴が来た」とツァラトゥストラは語り、彼の心は変化した。そして実際、彼の面前が明るくなったかと思うと、彼の足もとに一匹の黄色の美しい獣が横たわっていて、頭を彼の膝にすりよせ、愛のあまり彼から離れようとせず、さながら自分の昔の主人に再会した犬のように振舞った。だが、鳩たちも、その愛にかけて獅子に劣らず熱烈であった。そして、鳩が獅子の鼻先をかすめて飛ぶたびに、獅子は頭を横に振っていぶかりながら、笑った。・・『ツァラトゥストラはこう語った』最終部・最終章「徴」


*ゴンドラ

ヴェネツィアの貧乏なゴンドラ漕ぎは、今でもベルリンの本物の官吏より立派に見えるし、結局のところ、立派な男なのだ。



B1326[1]


先頃、鳶色の一夜
われ 橋のほとりに佇みき。
遠きより歌声の流れ来て、
黄金色なす水の雫、
打ち震う水面に湧きては 流れ去りけり。
ゴンドラと 灯火と 音楽とーーー
なべて酔いて、漂い出でては 小闇のなかにまぎれ離かりぬ・・・
そのとき、わが魂 弦の調べのこと、
ひとり、見えぬ手に奏でられつつ、
秘めやかにゴンドラの歌うたいたり、
目も文なる至福にしも打ち震えつつ。
ーー誰か その歌に耳傾けし者ありや?・・・・
(1888年「ヴェネツィア」・・『この人を見よ』)




トリノ

torino.jpg

風景にしたって、トリノは、このまぬけた、石灰質で樹もろくに生えていないリヴィエラの地区より、なんともはるかに僕の本性にあっているのだ。それで僕がこうも遅くあそこ「ニース」から引きあげたことに、いくら憤慨してみても憤慨したりないくらいだ。あそこの金銭で動くといった類の軽蔑すべき人間のことはなにもいうまい。――――あそこにいる外国人だってその例に洩れずだ。ここでは毎日が法外に豊かな陽光と完璧さのうちに現われてくるのだ。燃えるような黄色につつまれた素敵な樹木の容姿、空と大地は淡い青色、清澄きわまりない大気――かつて見ようとは夢想だにしなかったクロード・ロランの絵だ。(1888年10月30日)


夕方、ポー河の橋のうえに立ったが、すばらしかった。善悪の彼岸だ!


ポー河にぴったり沿ってほぼ1時間ほど僕を導いてくれるすてきな並木道



僕が恐れていたような大都会でもなければ、現代風でもない。17世紀の君主の居住地で、宮廷と貴族社会という支配的なある趣味がいたるところに見られるのだ。すべての点に貴族的な平安が確保されている。みすぼらしい郊外もなく、趣味の統一は色彩にまで及んでいる。歩いてみても、眺めてみても古典的な場所だ!・・・すべては僕の期待以上に、はるかに品位のあるものだ!


*柱廊(ポルティコ)
TorinoArcade[1]

広くて高い柱廊は自慢のひとつで、その延長は1万20メートル、行進すれば、ゆうに2時間かかる。


第一級の小さなポットなのに20サンチームのコーヒー
(アイスクリーム、トリノ風チョコ)


*下宿
カルロ・アルベルト通り6番地の4階(Via Carlo Alberto 6 Ⅲ)
この時期、著作『ワーグナーの場合』『偶像の黄昏』『反キリスト者』『ニーチェ対ワーグナー』など書いた。
(カリニャーノ宮殿の隣、角部屋4階)

定住したい場所をもちたいなら、田舎なんかへは行かず、喜々として都会のなかへ行くことだ。


*下宿の建物のパサージュとガレリア・スバルピナ
Galleria Subalpina

ガレリア・スバルピナ(僕の部屋を出るとすぐ下に見えるのだが)は、僕の知っているうちではもっとも粋な場所だ。そこでは、このところ毎晩『セヴィリアの理髪師』が演奏されているが、なかなか上手なものだ。人々は飲み食いしたものに、いくぶん上乗せした料金を払っていく(1888年12月16日)


ガレリア・スバルピナのなかの広間は3つ並んでいるレストランの天井の高い豪華な部屋で、夕食に王子の食べるようなピエモンテ料理(グリシーニ、野菜スープ、仔牛の骨付き肉、パスタ等)を安く40サンチームで食べている。


*カルロ・アルベルト広場(先王カルロ・アルベルトの騎馬像)
carlo alberto square

下宿の前
1889年1月3日夕方、この広場にて、辻馬車の馭者が駄馬の鞭打っているのを目にし、泣きながら駆け寄って馬の首に抱きついた。
その後、昏睡状態に陥り、以後、発狂状態となり、1900年8月25日ワイマールの自宅で56年の生涯を終えた。

desert.jpg

nietzsche[1]




ニース

エズ

*ニーチェの小道
エズ・シュル・メール駅よりニーチェの小道(Sentier Nietzsche)徒歩1時間30分

その年〔1883年〕の冬、私は生の中へ初めて輝きを射し込んできたニースの凪日和のもとで、私は『ツァラトゥストラ』第三部を見いだしーーそして完成した。全体をとおして一年とたっていない。ニースの風景の目立たぬ多くの地点や丘などが、忘れがたいさまざまな瞬間によって、私には祓い浄められている。「新旧の諸石板」と題されたあの決定的な章は、駅からムーア人のすばらしい岩の砦エズに向うひどく骨の折れる山道を登る途すがら作られたものである。(『この人を見よ』ツァラトゥストラ)


road.jpg

石ころのあいだを、しゃにむに上方へ通じている一本の小道、悪意に満ちた物さびしい小道であって、もはや雑草も潅木もよりつかない、こういう山道が、一徹に歩を運ぶ私の足で、ぎしぎしと音をたてた。(第三部・・幻想と謎について)


--私の場合、想像力がもっとも豊かになるときには、筋肉の軽快さもまたつねに最高になった。身体がさきに熱狂的感激に浸されてしまうのである。「魂」のことなど論外としておこう。・・・いくどか私の踊っている姿を見たいというひともいるかもしれない。あの頃私はまるで疲労知らずで、7,8時間も山道を歩きつづけることができた。よく眠ったし、よく笑った。--私は完璧ともいえる頑健さと忍耐力とをそなえていた。(『この人を見よ』ツァラトゥストラ)



*ニース

ニースは前の年の冬と同じで、驚くほど迅速に好影響を身体へ及ぼした。--いまは僕は、自分がニースやオーバー・エンガディンに引きつけられるのは、その空気の乾燥のためだと理解している。つまりリヴィエラ海岸とスイスのもっとも乾燥した地帯、すなわちニースとエンガディンが僕の頭脳にはいちばんいいのだ。今挙げた地方に晴れて澄んだ日が多いということは、間接的には、さきに言った空気の乾燥度の高さと関連している。(1884年12月22日)


ニースの町はたまらなくいやなところだ。僕は防御的に身構えて、まるで町なんか存在しないように見ている。大事なのはニースの空気と天候なのだ。


nice1.jpg

ニースは長くいるとだめです。大都市、馬車の耐え難い騒音など(1885年1月上旬)


*ニースの最初の下宿
(カトリーヌ・セギュラーヌ通りの南端の建物、38,rue Catherine Seguraneの2階・・・門の脇にニーチェのプレート。
*市民公園シャトー(下宿の向かい)
シャトーの丘の頂上のテラスが「フリードリヒ・ニーチェのテラス」
nice[1]
c[1]
*第4回滞在の下宿(1886年11月)
(サン・フランソワ・ド・ポール通りの一番海側、26,
rue Saint-Francois de Paule の3階)

sunset.jpg




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