Home *  * All archives

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
tb: -- |  cm: --
go page top

観光再生:小田実と柳田国男

中央公論の観光再生に関する特集記事について、以前、少し疑問に感じたことを書かせてもらった。
小田実氏が、1969年に出した『原点からの旅』のなかで、上記の参考になる部分があった。
もう40年も前に書かれたものであるが、今でも十分、納得することができる。


 観光についての「地元」的感覚は、「地元」という特殊を求める感覚ではない。
「地元」という地の利にどっかりと腰を落ちつけて、そこからあたりをぐるりと見まわす余裕をもった感覚ではない。
 それは、まず、第一に、普遍を求めるだろう。あるいは、普遍という名の都会を求める。
ご馳走にはアユがつきものだという普遍的な固定観念がまずあって、それ以外のものは受けつけないという感覚ーーそれが、私のいう「地元」的感覚なのだ。
 田舎でよく経験することだが、たいへん景色のいい海岸などに出くわして、私が、「景色がいいですね、ここは」と言うと、地元の人が「こんなのただの海岸ですよ。××岩のあたりのほうがずっといい」と答える。それでその人に連れて行ってもらって××岩に行ってみると、実はなんのへんてつもないつまらぬ夫婦岩であることが判る。れいれいしくシメナワなどつけてあるが、それは、つまり二見浦の夫婦岩のイミテーションにすぎないもので、私の眼には、さっっきの地元の人の眼には逆になんのへんてつもないものに見えた「ただの海岸」にすぎないもののほうがはるかにすばらしい景色に見える。
 「旅していて、何度、私はこうした経験をもったことか。この普遍的な景色の美醜についての固定観念は人々の意識を長年のあいだ支配して来たのだろう。
そして、その固定観念もまた、変化する。
今日人はたとえば日本アルプスの美をたたえるが、昔の農民をその場にたたずませれば、彼は言下に言うにちがいない。
「なんだ、こんなの、ただの山じゃないか。」
そして、彼は、あたりに富士山型のつまらぬ山を探し出して、「××富士」と名をつけてよろこんだにちがいない。

「尾道で困るのは、まず、第一にそういうことです。」
大阪から着任してまもない交通公社尾道営業所長の嶋村さんもまた、そのことを言った。
彼は、尾道を観光地として大きく売り出そうと心を砕いている人だが、彼がいたるところで出会うのは、「都会」的感覚と「地元」的感覚のズレだった。
 尾道の対岸の向島とのあいだに市営の渡船がひっきりなしに往復していて、渡航料は五円。嶋村さんは夕涼みがてら、子供らを連れてよくこの渡船に乗る。
「都会から来た人にはこんな渡船でも面白いんですね。ところが地元の人となると、いつも乗ってるもんだから、なんだ、こんな渡船、ということになる。」
 実際、彼がバーの女の子のまえで、渡船に乗って向島に行って来たことを言うと、すぐ、二人が異口同音に、
「なんでまた向島なんかへ行って来はったの、イモ掘りですか。」
 彼が尾道の美を説く。
すると、地元の人は、「たいしたことないですよ、ただの海(山、寺・・・・)ですよ」とことばを返す。
それでいて、ふしぎなことに、たとえば、テレビで林芙美子を主人公にしたテレビ・ドラマ『うず潮』が評判になると、地元の人々も尾道の美について語り出すのだが、それはいったんテレビ・ドラマを通過した上での美なのだ。
つまり、テレビ・ドラマを通過することによって、尾道という地元は普遍を獲得し、人々は安心して、その普遍的美を認識し始める。--極端に言えば、そうした状態がどこにでもあるのではないか。

 これは、もちろん、尾道という一つの「地元」にかぎられたことではない。
むしろ、都会をふくめて日本全国にひろがった現象だろう。
嶋村さんは、尾道の「文学のこみち」をそうした「地元」的感覚にとらわれない観光施設としてあげる。
たしかにアイデアとしては卓越なもので、千光寺の山のいただぎから千光寺に下る道が「文学のこみち」なのだが、道の両側の岩のところどころ、尾道の風物をうたった俳句や小説の一説などがきざみ込まれている。
たとえば、その「こみち」をかなり下って、ロープウェイを前景に、後景に海のひろがりをずっと見渡せるところに来ると、そこに、林芙美子の『放浪記』の一節「海が見える」云々の文句がきざみ込まれていて、そこで、人々はいっせいにカメラのシャッターを押す。
 ここで当然の疑問を思い浮かべることができる。
そこにもし林芙美子の『放浪記』に一節がなかったなら、いったい、何人の人間が立ち止まり、シャッターを押すか、ということである。
もちろん、そこが景色のすばらしいところなので、シャッターを押す人がいても決してふしぎではないが、それにしても、林芙美子云々のことがなければ、その人たちの数はるかに少ないものであるにちがいない。
とすると、結局のところ、「都会」的感覚と「地元」的感覚も根本のところでは一致しているということになるのだが、すくなくとも、そうしたなんのへんてつもない岩に林芙美子の『放浪記』をきざみ込ませること自体「都会」的感覚なのだろう。
「地元」的感覚から一歩抜き出たところに、その岩はたっているようだった。

 簡単に言えば、都会は「地元」に「地元」を求めるのだ。
その「地元」がほんとうに「地元」であるかどうかは問うところではない。
たぶん、それはそうではないのだろう。
都会の求めるものは「地元」ではなくて、「地元」的なものであるにちがいない。
これはよく方言を使った演劇や映画にあることだが、方言をほんとうに使うと、都会人にはさっぱり判らないので困る。さりとて、方言のあじわいは出したいーーというところで、方言らしいものを入れた劇なり映画なりができあがる。
そこで話される方言は方言そのものではなくて、方言を標準語という普遍的なもののなかを通じて、普遍的要素をつけ加えたいくぶん人工的なことばなのだろう。
しかし、人はそれを満足する。
「これは尾道のことばだよ」と。
 
ここで困るのは、「地元」がその「地元的なるもの」を、普遍的なものとして追いかけることである。
つまり、いつまでたっても、「地元」は「都会」を息せききって追いかけるだけにとどまる。
そして、ときには、「地元」と「都会」の時間的ズレは致命的なものとなる。
「観光城」の場合がそのいい例かもしれない。
「観光城」は、たしかに、はじめは「都会」が求める「地元的なるもの」の典型であったにちがいない。
「都会」は「観光城」に「都会」にない「地元的なるもの」の幻想をもった。
けれども、「都会」の感覚は急速に変化する。
ことに、高度成長にあふられて、その変化は速い。
あっちこっちの「地元」がこれこそ「都会」が求める「地元的なるもの」だとみなして「観光城」をぞくぞくとたてたときには、「都会」の関心はもう次のものに移ってしまっている。
 いい例が、かつての『君の名は』ブームにあやかった各地の観光施設なり名物なりだろう。
マチコさんがここでどうしたと言ったところで、「都会」から来る若い学生たちの何人が『君の名は』ブームを知っているのか。困ったことに、「地元」はそのブームがまた永遠につづくものだと思っていることである。
『うず潮』についても、『おはなはん』についても同じことが言えはしないか。
 この競争は永遠につづく。
いつでも「都会」は「地元」に先行して「地元的なるもの」を求め、「地元」が「地元的なるもの」をつくり出したとき、あるいは、それに似せて自分をつくりかえたとき、「都会」の関心はすでによそに去ってしまっている。
あとには、たとえば「観光城」のようなグロテスクなものが「地元的なるもの」の遺物として残される。

 こういった競争では、「地元」は考え方を根本的にあらためないかぎり、「都会」に打ち勝つことは不可能だろう。
そして、考え方を根本的にあらためるということは、「地元」がもっと「地元」に徹することによってのみなし得ることがらであるにちがいない。
「地元」が「地元的なるもの」の幻想にふりまどわされずに、自分のプログラムをしっかりともつことーーーそれがまず第一に必要なことであるのだろう。

 嶋村さんは、プログラムの必要性を説いた。
彼自身が、尾道を中心としたさまざまな観光ルートを考え出していて、一度は尾道の旅館の女中さんたちをひきいて、そのルートの一つを実際にまわってみた。
嶋村さんによれば、いや、これは彼だけの意見ではなく旅する機会の多い人たちに共通する意見だろうが、「地元」がいかに「地元」について知らないかはおどろくべきことだ。
私も旅館の女中さんなどから「地元」の知識について十分な情報を得られたことは、これまでまれにしかない。
「それで、とにかく、宿屋の女中さんから始めようと思うたんですわ。」
 嶋村さんは駅前の交通公社の小さな建物のなかで言った。
ルートは、尾道~生口島瀬戸田(耕三寺)~大三島井の口~大山祇神社~大久野島~尾道。
そのとき女中さんたちにくばったパンフレットを見せてもらった。
まず、「見ておくべきポイント」として、たとえば、「尾道駅前桟橋のキップ売場と船客待合室」、「瀬戸田ゆき船会社名と桟橋の発着場」、「瀬戸田までの所要時間」、「お船の大きさと定員」というようなことから、「耕三寺とは・・・・・・・ときかれたときにどう答える?」、「国民休暇村とはなんでしょう」というようなことがらに至るまで、一問一答のかたちで書かれている。

 私もそのルートを実際に通ってみた。
嶋村さんが強くすすめるだけに、ルートには、奇妙な表現だが、海と島がふんだんにあて、たしかに美しい。というよりは、さっぱりとさわやかだ。
そのくせ、耕三寺の門前市の瀬戸田には、タオルなどのつまらぬお土産を売る店がずっとたちならんでいるのであるが。
そして、井の口では船をおくれると、バスは遠慮会釈もなく出てしまい、私はカンカン照りのタンボのなかの道をかなり歩いたのち、やっと、タクシーをつかまえた。
 耕三寺は奇妙なお寺だった。
 どれくらい奇妙かというと、たとえば、金ピカのゴテゴテした門がたっていて、そばに寄ってよく見ると、これが日光は東照宮の陽明門を模してつくったものであることが判る。
門のまえにたって下を見ると、そこに塔がたっていて、それは室生寺の五重塔を模したもので、うちろをふり返る平等院の鳳凰堂がゆったりとひろがり・・・・・
 地獄のイミテーションまであった。
・・・・・・この耕三寺、どこを歩いていても、奇妙にチグハグな感じがしてならない。ガラクタの寄せ集めの面白い感じはたしかにあるのだが、創立者の意志に反して、どうも母をたたえるような殊勝な気になかなかなれないのだ。
 これなど、おそらく、「地元」的感覚によって、普遍を求めた一つの例なのだろう。
ただ、その普遍がそんじょそこらの普遍でなかったこと、あるいは、「地方的なるもの」でなかったことが救いとなっているにちがいない。
すくなくとも、「観光城」のみみっちさはここにはない。



 上記のなかで、「地元の人が地元を知らない」というようなことが書かれているが、この少し変形になるかもしれないが、視察旅行で海外を訪問する場合、よく現地支店の駐在社員が空港まで迎えにきて、滞在中、あれこれと団員のお世話をしてくれる。

日本から現地に到着した団員も、開口一番、必ずといってよいぐらい、次のように言う。
「現地の方(駐在員)が来てくれたなら、本当に安心。何でも知っているから安心!」

この駐在員は、「株式会社日本」といっていいぐらい、企業兵士となり必要以上に動き回る。
私も最初、お客同様、現地駐在が同行してくれるなら、安心と思っていた。
駐在員も団員の期待に応えようと、「まかしてください」と動く。

しかし、いざ日程がスタートすると、結構なくらい失敗してくれるのだ。
特に、観光などに関して、団体で動く場合の要点や希望というものを理解していないことが多い。
駐在員の場合、観光箇所について、自分だけで下見したのだろうから、ポイントよく案内できなかったり、空港へも自分一人なら飛行機出発30分前までに空港へ行けばいいのだろうが、団体ではそうはいかない。
いくら言っても、「私はよく知っているんだ!」という風だったりする。
けっこう、現地駐在員は、現地のことを知らないのだ。それも、何もかも知らない。
それでいて、日本のことは細かい事件までよく知っていたりする。
きっと、外国へ来て、日本のほうばかりみて、暮らす習慣がついてしまったのだろう。
 こんなふうだから、今では、駐在員が同行するという時にも、注意して気を緩めないようにしている。



今のような大不況では、上記の時代とは違って、「地元」的感覚や「都会」的感覚だけで、新たな観光資源を見出すことはかなりむずかしいと思う。
しかし、消費者が観光に求める力学は、この40年間、基本的に変わっていないのではないかと感じる。
もしかしたら、逆に、以前以上に、普遍的な「地元的なるもの」を求めているかもしれない。
地元の人も意識していなかった、すばらしい「地元的なるもの」を是非、見つけてほしい。
都会的センスも必要かもしれない。もしそれがなければ、「地元」的感覚でつくられた夕張市のテーマパークやスキー場のようになってしまうかもしれない。
 小田実がいうように、

<いつでも「都会」は「地元」に先行して「地元的なるもの」を求め、「地元」が「地元的なるもの」をつくり出したとき、あるいは、それに似せて自分をつくりかえたとき、「都会」の関心はすでによそに去ってしまっている。
あとには、たとえば「観光城」のようなグロテスクなものが「地元的なるもの」の遺物として残される。

 こういった競争では、「地元」は考え方を根本的にあらためないかぎり、「都会」に打ち勝つことは不可能だろう。
そして、考え方を根本的にあらためるということは、「地元」がもっと「地元」に徹することによってのみなし得ることがらであるにちがいない。
「地元」が「地元的なるもの」の幻想にふりまどわされずに、自分のプログラムをしっかりともつことーーーそれがまず第一に必要なことであるのだろう。 >



もう一つ、最後に、明治から昭和にかけて活躍した民俗学者・柳田国男の言葉を紹介したい。

そのなかで、次のような趣旨のことを言っている。
日本三景は、宣伝によって、普遍的「地元的なるもの」として称賛を保持している。
しかし、実際は大同小異、他の観光地と変わらない程度だ。
そのことは、どこでも日本三景になりうるし、今でいえば、どこでも、世界遺産になりうる。
そうならなければ、観光客にとってもとても不幸なことだ。

『青年と学問』柳田国男著より

・・・・或る土地或る時代の現実は、そのお蔭で(文章家の旅行)はじめて我々の智識となるのである。
・・・・・しかしながらこれが一方には、為にする宣伝の用に供せられた場合も多い。
たとえば今日九州で耶馬溪鉄道などといって、行き止まりの山懐へ一本の軽便鉄道を引き込むことになったのも、山陽先生の海内第一と称した結果にほかならぬ。
または日本三景などという名前が今に至るまで、多くの閑人の行動を束縛して、自在に山野を楽ましめざる原因も、つまりは文人が余計な組合せを案出したお蔭であって、激賞は各人の勝手とはいうものの、あまり出来過ぎた美文もやや近所迷惑である。
そのためにまず我々の旅行術が、やや正道を失せんとしているのである。
 支那などはじっさい平蕪広漠の地であって、十日半月の旅行を重ねて、わずかに山水の変化を見るという有様だから、風景の記事も珍重せられてよいのだが、日本はあたかもその正反対で、むしろ応接にいとまなしという実際である。
その数限りもない好景勝の中で、わずかに偶然が引き合わせた二三の箇所を見たばかりで、もうこのほかには好い景色はないような最高級の形容をするのは有害であった。
それというのが文章は美しく印象深く書くのが本意であり、詩歌もまたその通りであったからで、風景の紹介宣伝はいわばその結果に過ぎなかったのである。
純なる旅行道の立場から判断すれば、好紀行はかならずしも好旅行の表紙ではなかったのである。






tb: 0 |  cm: --
go page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://intouch.blog56.fc2.com/tb.php/106-a3c612c7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
go page top

新着記事+関連エントリー

カレンダー

カテゴリ

最新コメント

プロフィール

ブログ翻訳

旅行業の本

添乗に役立つ本

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。