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小田実の旅

 2年前(2007)に亡くなられた小田実氏
稀有の作家であり、平和運動家であり、旅人であった。
大文豪であり、平和運動家であり、旅人であったフランス人アンドレ・ジイドとよく似ている。
2人ともイデオロギーを非難し、「市民」と「人権」のために闘った。

私は、小田実氏の生き方をとても尊敬している。
そして、その稀有の業績と意思は今後も受け継がれていかなければならないものではないかと思っている。
特に、死後、彼の業績が抹殺されたような世の雰囲気を感じ、逆に彼の業績はすばらしかったのだという気持ちに益々なった。

下記の部分は、なぜ旅に出るのか?を小田実が明らかにしてくれている。


『状況への散歩』小田実著(日本評論社)1984年刊
 冒頭の「はじめに」の項に

 私は散歩するのが好きだ。趣味は何ですかと聞かれると、旅と散歩、そんなふうに答えることにしている。
 散歩が好きだといっても、静かな田園を歩くのが好きというのではない。べつにそちらがコンリンザイきらいというものでもないが、やはり、街なか、人のなかを歩くのが性にあっている。
 街なか、人のなかをぶらぶら歩いていると、犬も歩けば棒にあたる、で、いくらでもぶつかって来るものがある。べつにこちらからぶつかろうとしてぶつかるのではない。そのつもりもないのに、いやおうなしにぶつかって来る。逆に言うと、それが街なか、人なかのありようというものだろう。



『地図をつくる旅』文芸春秋 1976年刊

 眼からウロコが落ちることがなければ、旅に出かけることもない。・・・・・・・・・・
 眼のウロコという言い方、私はこの言い方を愛するのだが、英語式の言い方である。もっとも、これを正確に訳せば、要するに、ウロコのような不透明なフィルム状にものが眼にかかっている、一言につづめて言えば、眼のカスミということになるが、ウロコと言ったほうが何やらユーモラスである。ことに、ウロコが落ちたという言い方には、ふしぎに実感がある。日本流になおして言えば、さしづめ、ガクゼンとして眼がさめる。今まで見えなかったこと、判らなかったことがはっきりと見通されて来る。
 オレの眼にウロコなんかついているはずがあるもんかとおっしゃるむきはカガミを見ていただきたい。あなたが中年男なら、わたし同様、ウロコが幾重にも重なりあってついている。いちばん上にあるのが、たぶん、肩書きというウロコだろう。ついで、その肩書きがわかちたがく結びついた「うちの会社」というウロコ。その他、家庭、家族、学校、お金、くらしの習慣。こんなふうに言っても、むつかしく考えてもらっては困る。たとえば、伝統というウロコもあるにちがいないが、そう考えると何やらおどろおどろしいが、ミソ汁が好きだという伝統だってあるのだ。そして、イデオロギーのウロコもあるにちがいないが、これも、何も保守だとか革新だとかいうことだけではない。おれは(こんなしようもない毛唐やクロンボとちがって)日本人だぞというイデオロギーもある。
 そういうウロコが見えないとおっしゃるなら、それはウロコがあまりにもぶあつく、幾重にも重なりあってついているから、見えないのにちがいない。せっかく日本の外に出たり、そこにくらしていながら、そういうくらしのありようはまさしくカガミに何度でも出くわすくらしであると思うのだが、まるっきりウロコが見えない人には私はこれまでにいくらも出会った。
 ただ、ここで、注意しておきたいのは、たとえば、西洋に長くくらしたおかげで、西洋人そっくりのウロコを眼につけてしまいながら、そのウロコにはまるっきり気がついていない人たちがあまたいることである。・・・・・

 ・・・私自身のこととなれば、・・・やはり、ウロコも数多くなっていれば、ぶあつくなっているにちがいない。・・・それで、私は旅に出かける。日本のなかを旅して歩いてもそういう瞬間はあるものだが、それでも、やはり、日本の外は私にとってそうした瞬間の魅力にみちていて、私は日本の外に出る。日本の外を旅して歩く。人間、ほんとうにたのしみがないと働かないもので、ここで念のためにことわっておきたいが、眼からウロコが落ちることを大義名分として大上段にふりかぶって出かけるのではないのである。そんな苦行になど出かけたくもない。眼からウロコが落ちるということ、いや、もう少し積極的なことを言えば、未知なものに頭をぶちあてて、眼からウロコをそぎ落すということ、――それはなかなか気持のよいことであって、コン虫なんかが脱皮するとき、そういう気持ちのよさを感じているのではないか。

 ・・・眼からウロコが落ちるためには・・・やはり、こちらのほうから頭をぶっつけることが必要で、それで、めったなことに頭をぶっつけるおそれがない何とかパックのおしきせ旅行、あるいは、出張、視察という名の観光旅行では、なかなか眼からウロコが落ちてくれないのである。もちろん、同じことは、ヨーロッパやアメリカ合州国なんかに長年住んで、その地のウロコをあまた眼につけてしまった人にも言えて・・・・・。

 ここらで私が言っていることを別のことばで言うなら、ひとつは、意欲の問題であるということだ。つまり、眼からウロコをそぎ落す必要を自分で感じているかどうかということ・・・・・。

 ・・・私の眼のウロコを落し、そのウロコが落ちた眼にまっ先に見えて来たのは、私自身の姿かたち、ありようであった。



 小田実の初期の代表作に『何でも見てやろう』(1961年刊)がある。
 今でも、旅行者が、「何でも見てやろう!という気持ちで旅行に行ってきます」という様に、このフレーズは、旅行者の常套句となった。
 しかし、そういう旅行者がこの本の読者とは限らない。この「何でも見てやろう」というフレーズだけ聞くと、「さあ、色々体験してくるぞ!楽しんでくるぞ!」というかなり積極的なイメージを与える。それは小田実の生前のイメージとも重なるのかもしれない。
 しかし、小田実は、上記の『状況への散歩』というエッセイ集の序文で、散歩と旅をすれば、「犬も歩けば棒にあたる」だ、と言っているのだ。
私はこう解釈している。
つまり、「何でも見てやろう」と力む必要はない。
旅に出て、散歩(行動)すれば、向こうから勝手にぶつかってくるものがある。そのぶつかってくるものを避けて通るのではなく、しっかりとぶつかることが、「何でも見てやろう」ということではないだろうか。
 そのぶつかる意欲を保つ意欲こそが、「何でも見てやろう」ということではないだろうか。
ただ、意欲があっても、ウロコを幾重にも重ねてしまって、それをそぎ落そうとする勇気がなければ、ウロコが落ちる=既成観念からの変革はありえないということだ。



 小田実は、「めったなことに頭をぶっつけるおそれがない何とかパックのおしきせ旅行、あるいは、出張、視察という名の観光旅行では、なかなか眼からウロコが落ちてくれないのである。」と言う。

そのとおりである。
パックツアーは、当初から、向こうから何もぶつからないように造成されているのだ。また、現地では、ぶつかってくるものを、添乗員や現地スタッフが、お客に当たらないように、一生懸命、避けてあげているのだ。
「この町では、この前、日本のお客様がジプシーに襲われて、お金を全部盗まれましたよ!なるべく出歩かないようしてください!」
「ショッピングは後ほど案内します。日本語が通じる店ですので、どうぞご利用ください」
などというように、パックツアーでは、現地の空気さえ日本から運び込もうとしているようだ。
 その中で、旅を知っている添乗員なら、お客が少しでも何かにぶつかる機会を模索するはずだ。
おしきせのパックツアーの中で、「眼からウロコ」とまで行かないまでも、「眼から目やに」ぐらいは取ってやりたいと思うはずである。

 残念ながら、旅を知らない、添乗員や旅行会社社員は、ガイドブックと現地ガイドの説明以上のことは何もわからないので、旅行会社に言われたまま、つまりマニュアルどおり動くしか作法をしらないのである。
 つまり、添乗員自身が、ウロコの塊を抱えていて、いつ何がぶつかってきたのかも判らないのである。

近年、その目先の儲けばかりが気になる旅行会社は、お客に対して、「眼からウロコを落とす」どころか、前にもまして、「眼にウロコを重めに塗りたくる」行為に走り出した。

ニッコウトラベルは、現地のバス車内で、添乗員にFAXで取り寄せた日本の新聞を読ませている。
また、添乗員にお酌をさせたり素麺を作らせたり、その他過剰サービスは止まるところを知らない。
(あのくだらない『部屋周り』も今では添乗の基本業務に組み込まれている会社が多い)

この「眼からウロコを落とす」と正反対の行為は、旅を知っている添乗員にとっても、お客に全く正反対の結末を招くことを知りながら、実行せざるおえない負い目をもたらした。
 本当にお客のことを第一に考えるプロの添乗員にとっては、つらい日々だと思う。自分のその信念を忘れずにどうにか乗り越えてほしいと願うばかりである。 
 ということは、全く現状に疑問を持たない添乗員は、お客のことを第一に考えないエセ添乗員ということになる。
エセ添乗員が利己的で悪人であるといっているのではなく、眼にウロコがいっぱい詰まっているだけである。既成観念のなかで生き、何も見えないのである。
ウロコをそぎ落とす機会に恵まれないまま、添乗員として雇われた者たち。いつしか自分自身が番犬・添乗員となり、添乗そのものは、飼い主からワンワンと吠えた見返りとしてもらうエサとなった。
番犬は、決して飼い主に噛み付くことはできないのだ。ウロコでにごった眼には、信頼と服従の違い、思いやりとおしきせの違い、愛情と愛着の違い、・・・・・・がもうはっきりしない。
飼い主に誤射される日がもうそこまできているのに、番犬・添乗員は目にウロコを付けながら吠え続ける。

小田実がいうように、海外に長期いたような、留学生や駐在員あがりの添乗員のなかにもこの輩が多い。



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