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“いい添乗員”

先輩の添乗員とお酒を飲んだときのこと・・・
だいぶ酔いのまわっている先輩は・・・

「オレは、 “できる添乗員” にはなりたくない、
でも、・・・ “いい添乗員” になりたいんだ」

そのときは酔っぱらっていたのでそれほど気にもとめなかったが、その後、あの言葉が妙に気になりだした。

『いい添乗員』って、どんな添乗員なんだろう???

先輩に会って聞こう聞こうと思いながら、お酒が入るとついそのことを忘れてしまい、また次の機会に聞こうということになってしまった。

そして、結局、そのことを聞けずに終わってしまった。
一昨年、先輩は亡くなった。

今でもときどき思う・・・
『いい添乗員』って、どんな添乗員なんだろう???

その答えの一端をTCSAニュースの記事に見つけた・・・

*TCSAニュース 2012年9月20日号より

人との絆を痛感した東日本大震災
(株)旅行綜研
専属添乗員 深井 恵美さん
 私はこの東日本大震災の体験を通して、人間の絆の大切さを改めて感じました。
 2011年3月11日、私は41名と比較的大人数の三陸海岸2泊3日コースの添乗に出発しました。その日の行
程は、東京駅から新幹線に乗り八戸駅で降りた後、岩手県北部の田野畑村にあるホテル羅賀荘へ向かう、ゆった
りとしたコースでした。順調に進み14:40分頃ホテルに到着しました。そして、その直後14:46分に地震が発生しま
した。
 今までに体験したことがない揺れで、窓ガラスが割れてしまうのではないか、という程でした。揺れがおさまった後、
すぐにホテルの方がラジオをつけ大津波警報が出されたことを知りました。ホテルのすぐ裏手が海岸だったため、
避難することを決意。既に半数ほどのお客様は部屋に入っていたため急いで呼び戻し、バスで高台にあるアズビィ
体育館に避難しました。
 私たちが避難した直後、宿泊予定だったホテルは津波の被害に遭い5階まで浸水。急いで避難したため、間一
髪で津波から逃れました。付近の民家など小さい建物は、ほとんど流されていました。東北新幹線も止まり帰れなく
なったため、私たちは停電で夜は真っ暗な避難所での生活を余儀なくされました。雪も降り、本当に寒かったことを
覚えています。携帯電話の基地局も流され、ずっと圏外の状態でした。そんな中、避難所では私たち観光客にも炊
き出しや毛布を分けていただきました。家を流され避難してきた方ばかりで、いつまでこの生活が続くかわからない
中、貴重な食料を分けてもらい本当に人の温かさを感じました。
 3日目の3月13日、ようやく上越新幹線が復旧したというニュースを聞き、ホテルの方が山形県の酒田駅まで送
ってくださいました。岩手から酒田駅まで長距離にも関わらず、送っていただき本当にありがたく感じました。そして、
どうにか酒田駅からJRに乗り、新潟駅経由で無事に東京駅に到着しました。
 東京に戻りニュースを見て、改めて今回の震災の被害の大きさを知り驚きました。ケガ人や病人もなく無事に
帰ってこれたのは本当に奇跡だったと思います。振りかえれば、ホテル羅賀荘の避難対応指示、迅速な避難誘
導、適切な避難所への案内、羅賀荘の酒田駅までの送り、派遣元や派遣先の的確な指示などがお客様の人
命確保となり、「安全管理」と「旅程管理」に繋がったように思えます。
 自分ひとりの力ではこの状況を乗り越えることはできなかったと思います。周りの方の優しさに助けられてばかり
でした。次は私がこの添乗という仕事を通して沢山の方に優しさを与えられるようになりたいと思います。


『いい添乗員』って、どんな添乗員なんだろう???
きっとこの深井さんのような添乗員なのだろう!



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パリのナイトライフ

パリのナイトツアーの帰りだった。

フランスのパリでは、リド、ムーランルージュ、クレイジーホースというキャバレーで夕食を味わいエンターテイメントを観賞するツアーが各社オプショナルでよく用意されている。参加者が少なければタクシーなどで勝手にいってもらうこともあるが、多少人数が集まれば、添乗員が送迎のお手伝いをすることになる。

あのときは、何組かのツアーがパリに滞在しており、参加者全員を1台のバスで送迎するため、すべての添乗員も同行した。同行したといっても添乗員はあくまで送迎であってこんな高価な食事まで同席はできない。同席すればもちろん自腹となる。席まで案内したらどこかのカフェで時間でもつぶしてショーがお開きとなる頃再び迎えにいくのだ。けっこうな時間だ。カフェにいるのも退屈なのでウロウロとそのまわりを散策することになる。

ショーが終了するのは夜の12時近く・・・・
朝から好奇心とともに身と心が活発に動いているお客様にとってこの時間はまちがいなく限界に近づいているはず。脳の機能はもう8割がたスリープモードとなり、お客が考えていることはただシャワーを浴びて寝ることだけだ。
ショーそのものも、面白かったのは最初の10分ほどだったはず。あとは睡魔との戦いだ。人間の慣れとは恐ろしいもので、初めてこそ好奇心で満ち溢れているが、すぐにそこの住民のようにマンネリしてしまう。
ショーの中ごろから「もうホテルに戻りたい」と思っていただろうお客様は、迎えにきた添乗員の顔をみると、子供のようにほっとする。スリープモードの彼らをどうにか意識を覚醒させバスまで誘導する。
バスが走り出す。人気のない夜のパリの灯をボーっとした顔で眺める。半開きの口から発せられる言葉はない。

そのときだった!
同行していた1人の添乗員の大きな声が、車内に響き渡ったのは!
マイクから流れる彼女の声は、元気いっぱいに、左右の景色を説明し始めた。
「右に見えますのは・・・・・・セーヌ川でございま~す!」
真っ暗でよく見えない景色を見つけ出す彼女の能力にビックリしたが・・・・それに、ぼんやりとした目つきで反応する「お客魂!」にも感動した。

じつは、彼女は私の友人である。
とてもいい人だ。
思いやりもあり、勉強家である。
お酒を飲んだときの彼女の口癖は、
「なんで私ばかり運が悪いの~?」
「次はきっといいことがあるよ!」と私は応えていた。

パスポートを紛失したお客様・・・
行方不明になったお客様・・・
心筋梗塞で亡くなったお客様・・・・・
怪我、病気、飛行機のトラブル・・・・・

こんなことが続くのであるから、誰でも「なんで私ばかり・・」となるであろう。

ただ、真夜中の帰りのバスに流れる彼女の観光案内を聞きながら、私はなぜか複雑な思いにかられた。



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ハッピーバースデー

 ツアー出発前、メンバーリストで参加者の誕生日を調べる。
 ツアー中に誕生日を迎える人がいないかどうか?
 
 けっこう数字というのは確認したようで見落としていることが多い。だから何度か確かめる。
 阪急トラピックス、JTB「旅物語」、クラブツーリズムという“格安三羽烏”の場合、参加人数が多いから大変だ。40人近くがザラである。もちろん、それだけ誕生日の確率もあがる。

 20年以上前なら、参加者が30人近くなったら、添乗員をもうひとりつけていた。その当時とツアーのリスクは何も変わらないのに、今では40人いても添乗員はひとりだ。
 いや!逆に、以前よりリスクが大きくなったかもしれない。ツアー内容が複雑になったうえガイドやアシスタントがつかない。お客様も、国内ツアーのように小言が増えてきた。

そんな中で、誕生日のお客をピックアップしてメンバーリストにチェックを入れる。

何のために?

もちろん、誕生日のサービスをするためだ!

旅行会社のマニュアルに書いてある。誕生日のプレゼントをするなり何かしかのパフォーマンスを添乗員は決められたバジェットでおこなわなければならない。
結構なプレッシャーだ。
もともと決まっている日程のなかで、誕生日のお客様プレゼントを用意するなりしなくてはならない。
しかも、旅行会社がそのために用意する費用も決まっている。だいだい1000円位から3000円あたりまでではないか?
格安ツアーの場合、1000円以内だろう!
1000円で何が買えるか?1000円でどんなパフォーマンスができるか?
もちろん、領収書必要で、足が出たら添乗員の自腹だ!!

添乗員にとって一番安易な方法は、バジェッド以下のプレゼントを現地で調達して、誕生日の日、「お誕生日おめでとうございます!会社からのささやかな気持ちです」と言って、本人に手渡すことだろう。

わたしは、これで十分だとは思うが、添乗員によっては、晩餐時にケーキでも用意し、お客様全員で、「ハーピバスデイ~トゥ~ユ~!」とお祝いしてあげている。

ここまでしたら、本人が恐縮するのではないか?と私はずーっと思っていたのだが、あるツアーで、丁度ホテルの売店でデコレーションケーキが一つ売れ残っており、ホテルレストランのマネージャーもとても親切な方だったので、夕食時、ケーキとワインを用意して参加者全員でハッピーバースデーをしてあげたことがあった。

夫婦で参加された高齢のご婦人であった。

「もう~そんな年ではありません~」と笑顔ではずかしそうにしていた。

わたしは、「いいじゃないですか!旅行中は、みな子供にかえっていいと思います」
と言ったが、やはり恐縮させ気分を害してしまったかなあ~と心配だった。

その後、変わりなくツアーは終了したが、会社に手紙が届いていた。
誕生日のお祝いのことが記されていた。

ほんとうにうれしかったらしい。もう何十年も誕生日などお祝いしたことがなかったそうだ。子供のいないご夫婦だったのでなおさらだったかもしれない。大勢の人におめでとう!といってもらえたのが、とっても幸せだったようだ。夫婦連名の手紙だった。

その後も年賀状も届くようになったが、そのときの感謝がいつも書かれているのだ。

わたしは、ノルマのように儀礼的に誕生日をチェックしていたことを反省した。

現実は、ツアー日程は、あるお客様の誕生日にそって決められているわけではないので、ツアーの日程のなかで、儀礼的にサービスしなければならないだろう。
ハードな日程でお客様もクタクタなのに「ハッピーバースデー」などやってられない。早く部屋へ戻ってシャワーをあびて眠りらせたい。
そんなときは、ホテルの売店で小物でも購入してプレゼントするしかない。

ただ、あの老婦人に手紙をもらってからは、私のなかに、「ハッピーバースデー」という心情が芽生えた気がする。



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5月の添乗で・・・

 ちょうど今くらいの季節だった。
 ミコノス島、サントリーニ島という人気スポットの入ったギリシャツアーだった。
 だからなのか、季節柄なのか、ハネムーン客ばかりであった。

greece2.jpg


 古いギリシャ遺跡の町々、白亜の島々などすべて回り、再びアテネに戻ってきた。
 皆、疲労感、充足感、不安感、そして期待感が入り混じっていた。
 ギリシャで最後の夕食。お酒と郷土料理!よい想い出を・・・・・・
 明日は、午前中フリータイム、午後出発でアテネの空港へ向かう。

greece3.jpg


 夜中の1時過ぎだろうか?
 寝ている私の部屋に電話がかかってきた。
 夜更けに電話がかかってくることは滅多にないが、もし電話をかけてくる相手といえばお客様しか考えられないので緊急事項に違いない!・・・と普通は思うはずだが、その頃とてもそうは思えない電話がツアーの毎に続いていた(お客様からすれば緊急事態だったのだろうが)。
 たとえば、部屋の空調の音が気になる・・・・とか
      ミニバーの精算は、今のうちにしておいたほうがいいか・・・・とか
      出ました!! というものまで・・・・・・

 わたしは、ベッド脇の受話器を取った。男性の声だった。
 「あの・・・・あの・・・・」
 その声で、誰かすぐにわかった。
 ハネムーンで参加されたちょっと口下手な彼である。
 「どうかされましたか?」と聞いても、また「あの・・・・」と繰り返した。
 
 わたしは、とっさにあることを思い出した。
 以前もあるハネムーンのお客様から夜中に電話をもらって、いきなり「コンドーム、持ってませんか?」と言われたことを!
 もしかして・・・・それでモジモジと、「あの・・・」を繰り返すのでは。

 わたしがそのことを言おうかとした矢先、
 「添乗員さん、おやすみのところすいませんが、急いで、ぼくの部屋へ来てもらえませんか!」
 と、先ほどの「あの・・・」のトーンとは別人のように、はっきりと強い口調で言った。

 私は服を着替え、そのご夫婦の部屋へ向かった。
 彼は部屋のドアを少し開けて待っていた。その顔は、幸せなハネムーンとはとても思えないくらい不安に満ちていた。
 部屋の奥の電気スタンドの脇に奥さんが静かに座っていた。

 《これはコンドームどころの話ではないな・・・・》
 
 「すいません、おやすみのところ・・・妻は呼ぶ必要はない、と言うのですが・・・・私は、心配で・・・」
 「どうかされましたか?」

 彼は、彼女の同意を求めるかのように、ちらっと奥をながめた後、

 「妻が・・・・、妻が・・・、リストカットして・・・大丈夫だ、とはいうんですが・・・僕はよくわからないから・・・」

 わたしは、奥さんの傍へいって、柄物のタオルで押さえている腕を見た。
 タオルはかなり血で変色しているようにみえた。

 ツアー中見かける彼女の表情はそこにはなかった。
 とても明るく人に気を配る方だったが、現在は、放心したように座り込んでいる。

 「大丈夫ですか?」
  うなずく。
 「お医者さんを呼びましょうか?」
 「大丈夫です。自分でわかりますので・・・・」
 彼女は答えながら、ちらっとダンナさんのほうに目を向けるのだった。

 これは後でわかったことであるが、彼女には、中高生時代に自傷の経験があった。

 わたしはご主人に少しの間、席をはずしてもらった。
 「もし、ご主人に言いづらいことがあったら、私に言ってください」
 「・・・・・・・・・・何もないです。とってもいい人です。・・・・でも、不安で・・・・」
 
 わたしは、タオルを少し開いて傷口をのぞかせてもらった。
 血が止まっているのかどうかはっきりわからないが、傷口がめくりあがっているように見えた。
 やはり、医者に見せて消毒をしてもらったほうがよいと思った。
 
 ご夫婦の了解を得て、ホテルのマネージャーに頼んで医者を呼んでもらった。
 
 静かな灯りのなかで、そのお医者さんは、手際よく、縫合し包帯を巻くと、ニコッと微笑み、2人の方をトントンと叩き、「・・・・・・・・・・」と言った。
 わたしには、何と言ったのかよく聞き取れなかった。
 が、二人が同時に私の目を見たので、答えなきゃ?!とおもい、とっさに、頭に浮かんだことを伝えた。

 「悪い想い出は切除しました、これからがスタートです」
 と言ってます。
 皆が頷いた気がした。

 
 彼女は24歳だった。彼は30前後だった。
 二人は、「見合い」ではないが、「恋愛」と呼べるほどでもない、と言った。

 どことなくぎこちない二人だったが、最後に成田空港で目にした姿は、彼が彼女をかばうようにスーツケースをターンテーブルから引き下ろし、寄り添いながら会釈する様子であった。

 その翌々年だっただろうか?
 ご夫婦から年賀状が届いた。
 そこには、赤ちゃんを抱いたお二人の楽しそうな笑顔があった。



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リストビヤンカの日本人墓地

ある『フォークソング愛好会』を連れてロシアへ行った。
『フォークソング愛好会』といっても、ボブ・ディランや吉田拓郎ではなく、地方や国々といった地元に伝わる民謡をこよなく愛するクラブである。だから、ほとんどのメンバーが中高年、昔「歌声喫茶」でロシア民謡をともに歌った仲間が多い。

飛行機がロシアのイルクーツクに到着しバスへ乗り換えると、さっそく団長の音頭とともにロシア民謡の合唱がはじまった。

りんごの花ほころび
川面(かわも)にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ

 
岸辺に立ちてうたう
カチューシャの歌
春風やさしく吹き
夢が湧くみ空よ


さあ~~もう一番!

ガイドとドライバーは大喜び!だったが、わたしは、これから何度もロシア民謡を聞かされるのかと思うと気が重くなった。

イルクーツクはシベリアの開拓史そのものの街である。
16世紀からはじまった毛皮の交易、デカブリストなどの囚人の流刑地として・・・・・
モンゴルの上方のバイカル湖から流れ出るアンガラ川の河口に生まれた人口60万の都市。
首都であるモスクワより日本に近く、以前は新潟から期間限定の定期航路があった。自家用車を船で送りウラジオストックからイルクーツクまでカードライブを楽しむという家族もいる。

メインの観光地は、海と見間違えるほど巨大な湖バイカルということになる。
紺碧の湖面。そこをプライベート用のクルージング船で遊覧する。夏でもさわやかな風がシベリアから原生林の隙間をぬって湖面にふきよせる。バイカル湖は縦に長い。
船のキャプテンに聞く。
「端まで何時間くらいかかりますか?」
キャプテンは指を3本出した。
「3時間?」
「3日間だ」
「・・・」

クルージングの帰り、昔使っていた蒸気機関車が放置?されているところに立ち寄った。
団員のなかに3名、元国鉄の職員がいた。
「ぜひ見たい」という。
長閑な雰囲気の緑生い茂る引込線に野ざらしで置いてある。
大きな蒸気機関車だった。
シベリア鉄道を牽引していたのだろうか?
とても大きく見える。
元機関士たちは、当時を思い出したのか、とてもうれしそうにその大きな蒸気機関車に走りより、抱きつき、機関室に駆け上り、息をはずませていた。
めずらしそうに眺めている私に、
ここに石炭が積んであってね、こうして、こんなふうに、入れるんだ!
側面の長い筒を何だろう?といじくっている私に、
石炭だけあってもだめなんだ、それは、水の流れる筒でね、
こっちに水が積んであるんだ、こうして、こうやって、水が流れて、はじめて、石炭は、動力になるんだ!・・・・・・
彼らのはなしを聞いているうちに、わたしはなぜか蒸気機関車というものが好きになってきた。

イルクーツクのホテルへ戻る途中で、団長からひとつ提案があった。
今回は、観光目的のツアーではあるがこの近くに、ロシアに抑留された日本兵たちのお墓があると聞いております。是非、一度、全員でお参りするというのはいかがでしょうか?

 異議を挟むものはいなかった。
その墓地はリストビヤンカというバイカル湖畔の小さな村にあった。なだからな坂を登っていく。自然の豊かな落着いた人家の奥に、日本人のお墓はあった。
りっぱな墓標と小さな墓石がきれいに手入れされた草木のなかに佇んでいた。
その静けさは、戦争がはるか昔のできごとと十分に想像させてくれた。

リストビヤンカ1

「八紘一宇」の大義名分のもとに侵攻した日本の世界戦争は、1945年、末期を向かえていた。遠くインドやオーストラリアまで進軍した南方戦線は壊滅状態であり、ほとんどの地域で空・海・地上での支配権を失っていた。4月には沖縄における地上戦、日本本土への空襲と、兵士だけでなく日本住民まで否応なしに戦火の恐怖におののくこととなった。
そんななか、日露戦争でロシアからぶんどってつくりあげた満州国では、戦地と離れていたせいか比較的平穏が保たれていた。ただ、王道楽土の夢を抱いた多くの開拓移民を抱える満州国でも、6月にヨーロッパ戦線終結したソ連がその兵力を日本との参戦にひかえて東方へ移動させるのではないかとの観測がながれ、開拓移民をふくめ多くの民間人が志願兵という名で、関東軍主軸の日本軍に参入させられていった。通常であれば、徴兵されない虚弱体質の者やかなり高齢の者までこの満州では初年兵として隊列に組みこまれていった。こういう者たちにとって古参兵の厳しい軍体質に耐えうることは並々ならぬことだったにちがいない。多くの自殺者や逃亡者まで出すに至った。

1945年8月9日、長崎に原爆が落とされたこの日、ソビエト軍の怒涛のような攻撃がはじまった。それは、歴然とした力の差だった。ヨーロッパ戦線ではアメリカ以上の総力でドイツを打ち砕いてきたソ連軍にとって、瀕死の寄集め日本軍などものの相手ではなかったのだろう。なにせ、日本軍はほとんど丸腰で重戦車に立ち向かおうとしていたらしい。ソ連はいっきにすべての支配権を確立し、日本軍は終戦になったことも知らず援軍を待ち続け戦闘を続行していた。ただ歴然とした力の差が逆に日本軍に無意味な玉砕を避けさせた大きな要因だったのかもしれない。

前線にいる兵士たちにも、9月に入ってからやっと日本の「無条件降伏」の伝令が届き武装解除がおこなわれた。ほとんどの兵士は敗戦の悲しみとともに、これでやっと家族のもとに帰れると喜んだはずだ。早く帰りたい!満州で徴兵を受けた多くの新兵は、妻や子を満州に残している。伝え聞く恨み辛みのつのった中国人、朝鮮人、ロシア人たちの日本人への仕返しは壮絶とのことだ。

こんな中、日本軍兵士の移動が始まった。
何キロにも渡る死の行軍、貨車にぎゅうぎゅう積めにされて何日にも渡るシベリアの移送。
「ダモイ(帰る)」とロシア兵士が何度も叫ぶ。
ロシア語を信じ一時喜んだ日本兵らは、その言葉のいく先々に収容所があり、ほんとうに粗末な食事と重労働が待ち受けていることに自分たちは捕虜になったんだとやっと理解する。

10月過ぎのシベリアはもうかなり寒い。また、この年は、戦争のため穀倉庫であるウクライナが壊滅的な被害を蒙りソ連国民でさえ食糧難であった。そのなかを戦争で疲弊した身体をひきずった日本人たちの抑留生活ははじまったのだった。

軍人、軍属、民間人あわせて日本人捕虜の数は、約60万人。収容所は、北はハバロフスク北方から西のウクライナまで約2000箇所に達した。現地で亡くなった抑留者約6万人。その多くは、最初の1年間、疫病、栄養失調、作業事故で死亡した。マイナス50度にもなる厳冬下の重労働と食料不足が彼らの体力を奪っていった。結核や肺炎となり、浮腫という栄養失調死を生み、意識集中できず機械に体を巻き込まれて死んでいった。

日本国の大東亜構想のひとつとして満州国の開拓に夢と希望を抱いて海を越えてやってきた日本人。農業に適さない土地と厳しい気候のなかで家族を養うために頑張ってきた。召集兵として日本軍の一兵卒とされ、鉄砲の持ち方のわからないまま最前線で「死」の恐怖と対峙させられ、捕虜として遠く過酷なシベリアでじゃがいも数個と引きかえに重労働を従事しなければならなくなった。身体が悲鳴をあげたとしても不思議でない。
死亡者の多くはこのような元民間人の初年兵であったのだ。

うちの近所にシベリア帰りのおじいさんがいる。
もう90歳を過ぎており耳も遠くかなりボケている。そんなおじいさんだが、シベリア時代の話だけは、流暢にロシア語をまじえてしゃべるのだ。
「ああ~たいへんだった・・・」というのだが、表情はなつかしそうに、遠くをみつめるように、しゃべるのだ。傍からみていると、まるで「良き想い出」のように感じるときがある。
わたしには、そのへんのところが不思議でならなかった。
過酷なシベリア、死と向かい合わされたシベリアではないのか?
ロシア人が憎くはないのか?
そのことを聞くと、急に耳が遠くなるのか、「ん?ん?あああ、憎い!憎い!ヤー・パルースキ・ニパニマーユ(ロシア語わかりません)」と言って笑うのだ。

私はこう思う。
日本は戦争に負けた・・・・
ソ連が満州から多くの日本兵をシベリアに連れて行き捕虜として重労働に従事させたことはあきらかに国際規約の違反だろう。
当時多くの兵士もそう思ったはずだ。
ただ、「負けたら仕方がないのだろう、日本も勝っているときは同じことをしていたんだから」という諦めも日本兵たちの間にはあったのではないか。
火事場泥棒のように勝ったソ連だが、勝者にはちがいない。従うのが道理だという意識があったのではないか。
否応なしにやってくる自分の過酷な運命を受け入れるしかなかった。

そして、その過酷な自分の運命の中でみたものは、「粗暴なロシア人」だけではなかった。
そう、そこで見たものは、もっと「粗暴で傲慢な日本帝国軍」だった!

シベリア抑留で死亡した多くの初年兵たちは、日本帝国軍に殺されたのだ。
初年兵たちは、ただ体力がないから労働に耐えられず早くに死んで行ったのではない。

終戦で解体したはずの日本帝国軍の階級制度を遠くシベリアの収容所でも振りかざし、自分たちは労働をせず食事を率先して優先する日本軍将校のせいで、初年兵たちは死んでいったのだ!
一番重い重労働に従事させられ、食事は将校たちの残り物を漁らされ、自分たちの気晴らしに暴力をふるう将校や下士官たち。初年兵らの持ち物の中から金目の物を奪い取り、ロシア人と交渉して食べ物や煙草と交換する崩壊した日本帝国軍人らが、いたずらに、初年兵の死者を増やしていったのだ。
本来、上官として責任をとるべき階級が、自分たちが生き残るために一番弱い末端の初年兵を見殺しにしたのだ。
いつの時代でも権威の守銭奴となった者は、良心と正義を棄ててまで自分や権威を守ろうとするようだ。
 イジメっ子の「自虐史観?」、イジメられっ子の「民主化運動?」、多くの名も無き兵士たちは草場のかげで苦笑いをしていることだろう。

リストビヤンカ3

リストビヤンカの空は青かった。空気はとてもさわやかだ。
ツアーの団員たちは、大きな墓標の前で手を合わせていた。
わたしは、小さな墓石に向かって手を合わせた。
・・・・・・・
死ななくていい命だったはずだ。
・・・・・・・
せめて唯一の幸せは、家族の夢をみながら死ねたことだろうか?

小さな墓石に手を合わせながら、わたしは、発見されず今だこのシベリアの大地のどこかにに眠っているだろう多くの抑留者の土塊にたいして「ご苦労さま」とつぶやいた。


夜霧のかなたに 別れを告げ
雄々しきますらお いでて行く
窓辺に瞬く ともしびに
尽きせぬ乙女の 愛の影

戦いに結ぶ 誓いの友
されど忘れ得ぬ 心の町
思い出の姿 今も胸に
いとしの乙女よ 祖国の灯よ



イルクーツクのホテルへもどるバスの中では、再びロシア民謡の合唱がはじまっていた。
いつのまにか私も歌っていた。
ドライバーもガイドも口ずさんでいた。


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