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小田実の警告!

*1999年12月28日号
市民の入らない、市民を入れない―「原子力・運命共同体」




今年1999年9月30日に東海村の核燃料加工工場で起きた臨界事故、4年前の12月に起こった高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏出火災事故、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・どちらもが事故を厳しく受け止めているとは言ったが、しかし、そのあとが、だから、原発をやめる「核燃料サイクル」をやめる―にはならない。逆に、安全の確保に努力する、だからこそ、原子力を変わりなく推進するのだ、と主張する。これはまさに本末転倒の議論、あるいはただの屁理屈だが、この奇妙な主張を支えているのが、「国の発展にはエネルギー源が必要だ。代替エネルギーは他にない」という大義名分と、今回の事故は「違法」と「手抜き」によって起こった事故だ、それにすぎない、きちんとやっていれば事故は起こらなかった―とする日本の科学技術への依然として変わらぬ過信だろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・この「原子力・運命共同体」が最初から無視しているのが、さっき引用した「原子力の犠牲」の声だ。市民の声もそこにはない。この「原子力・運命共同体」は市民の入らない、市民を入れない「原子力・運命共同体」として今も変わらずある



そして、この大震災後・・・・・・・・・
原子力の犠牲者の声は、テレビというバイアスをとおして私たちの目にはふれる。あの3人の被爆者はどこへいってしまったのだろうか?

「声」は放射線量のごとく「拡散されますのでただちに問題はありません」ということか?
東電、省庁、政府の対策現場に、「市民」はいるのだろうか?


「思想というのは歩いて考えるのがいい」






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26年前の論客!若い!



今から26年前ですね!

皆、若いです。

田原総一朗氏も、まだ正義感があったようです。

私の尊敬する小田実氏のような迫力のある文化人は、今はいないように感じます。
もしかしたら、けっこういるのかもしれませんが、現在のマスメディアでは表に出てくることがないのかもしれません。
ハングリー精神と教養のないマスコミにとって、マスコミとはいかしたファッションでしかないのかもしれません。

 マスコミも2世が多いと聞きますが、政治家と同じように、特別な才能がなくても親のコネがあれば取り合えず居られる職場なのでしょうね・・・・・・
 それを、親バカが褒めるものだから、才能があると勘違いしちゃう者が多いのでしょう。
芸能人でも、けっこういますね・・・・・・・ドラマがおもしろくない原因もここらへんにあるのではないですか、



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小田実・・『遺す言葉』

 今日は、作家・小田実の命日である。
2年前の2007年7月30日、ちょうど、安倍内閣の参議院選挙の大敗を見届けるように、亡くなった。

彼は、『何でも見てやろう』以来、死ぬまで、一貫して市民派であった。
常に、市民のための世界ということに軸足をおいて、死ぬまでそれがぶれることはなかった。
年齢とともに、保守的になり、体制に迎合し、名誉にほくそえみ、「若いころとは違うんだよ」と平然と言ってしまう者がほとんどのなかで、死ぬまで、弱者である自分を含めた市民のために、活動していた。

2001年の同時多発テロ以降、市場原理主義がもっともらしく強調され、「弱者というのは、自分の努力が足りないんだ」という嘲笑なかで、「勝ち組」「負け組」という言葉が、誰からも平然と口から出るようになった。
こういう考えの対極にいたのが、小田実だった。
テレビや新聞は、市場原理主義の太鼓もちとなった。
当然、マスコミは小田実を避けて通るようになった。
もともとの右翼だけではなく、ネットではびこるプチも、ここぞとばかり、小田実を攻撃した。
特に、小田が、北朝鮮について、過去に「いい国だ」と発言したことを問題にした。
もともと、小田実は、べ平連の頃に、北朝鮮とのパイプを持っていたようだが、小田の言動は、反戦、市民主義の現場で最善と思われる処方を模索していただけだ。
だから、当時、北朝鮮を日本やアメリカよりいいと言ったのは、べ平連の代表としてはしごく当然であった。
そのことと拉致問題とは、まったく別な話であるが、拉致を国家ぐるみでおこなう国を小田が賛美していた、という論調を右翼は好んだ。
小田は拉致問題について、犯罪と認めている。

小田実が亡くなられた後、NHKで追悼番組が組まれた。
その「遺す言葉」のなかで、病院のベッドに臥せりながら言った言葉が忘れられない。
彼は、明治維新後の日本人が一生懸命努力し、繁栄を謳歌するも、その活力を世界を巻き込んで間違った方向へ筋立ててしまったことに嗚咽する。
だが、小田は、日本はアカンというんではなく、日本は価値のある国だと見直してほしい、という。
日本人って、その程度じゃないだろ!
日本人って、もっと、期待してもいい国民だろ!
日本人って、信じるに足る人たちじゃないのか!
私は、信じているんだ!という意味のことを言っていた。

(*私はよく外国で、よその国の旅行者にいわれた。「私は日本人だけは信じている」と。「日本人は、まじめで、嘘をつかない」と。私は、そんなことあるか?とその時思うが、確かに、相対的には、そういう悪意のある日本人はあまりいないようだ)




そのNHKの「遺す言葉」で、私の好きなフレーズを命日に噛みしめようと思う。

           「人生ってそんなもんやろ・・・・・
           ワーッとやんなきゃ できないよ・・・・・・・・
            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            これでよしとしよう 」







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貧乏な観光

(『原点からの旅』小田実著)
 



貧しさが見えないはずのところに、かえって、貧しさがすけて見えるーーーその典型は、たとえば熱海の海岸に林立するビルディングのホテル群だろう。
東海道線、新幹線の駅から見ると、それはまさに近代的デラックスなホテル群だが、いざ、実際に降りてそのあたりまで足を伸ばしてみる、あるいは、ホテルの客になってみると、その「デラックス」の底にチラチラ貧乏がすけて見えて来るのである。
 貧乏がすけて見えるのは建物ばかりではない。私はこれはそのホテル群でのことではないが、東京で高名なレストランに入って、何か料理のことでボーイさんに訊ねたことがあった。
彼は「知らない」と率直に答え、それからまさにてんたんとした表情で、「こんなもの、一度も食べたことがないんで。」
 いや、それは客のほうも同じだろう。
その「デラックス化」されたお城のようなホテルに入って、大枚のお金を払うのであるが、そのお金の額は、いったい、彼の給料の何倍にあたっているのか。・・・・・



 観光業は、その利用者に普段とは違った、楽しみを提供するのが目的だろう。
しかし、全産業のなかでも、とくに、営業利益率の悪いのが観光業でもある。だから、なかなか設備などのメンテナンスでも、十分お金をかけてリニューアルすることもできない。
そのほころびを偶然眼にすることもある。
旅館やホテルでも、「ああ、ここ修理してないんだな」とか、「旧式のものを大事につかっているんだな」などと感じることがあった。
このような貧乏感以上に貧乏を目のあたりにするのが、ソフト面であろう。
従業員の笑顔にも、悲壮感や倦怠感が見え隠れし、「無理してんだんあ」と強く感じるのだ。

添乗員もしかり。
以前から、添乗員は貧乏であったが、土産物屋でもらったブランド品を身に付け、ごまかしながら、何とか頑張っていた。
しかし今では、旅行会社の締め付けで土産物屋も余分な負担はできないのであろう、添乗員にそのような寄付はなし、すべて自腹。
以前であれば、多少自己負担がかかってもショッピングコミッションが多少入ればまあいいか!という気持ちがあったが、今では、給料は低額のうえ、現地での入りがないのだから、これで万が一、現地で自己負担になるようなことでもあれば、完全に生きていけない。

自己負担って何か?といえば、当然添乗員といえども、喉も渇くし、洗濯(ランドリー)もしなくてはいけないし、枕銭だって出さなければならない。そういうものを必要最低限にしようと思う。また、旅行会社の用意する世界最低額の現地のガイドやドライバーのチップ額では、この人たちが怒ってしまうだろう!少し上乗せしたほうがいいかと悩む。食事の際のテーブルチップでも、客が全く置いてくれなければ添乗員として後ろめたいだろう!フリータイム時に一緒に利用した、タクシー代やコーヒー代だって、客から言ってきてくれなければ、添乗員側からは請求しづらいだろう!
(細かいことをいえば、為替レートでさえ、旅行会社が有利なようにできており、必ず添乗員が損をする。)

これを自腹にしてしまったら、ただでさえ、暮らしていけない給料が目減りしていくのだ。
こんな余裕のなさが、添乗員の表情に出てくる。
「貧乏」が体全体からかもし出されるようになるのだ。

添乗員をそんな状態にしておきながら、旅行会社はお客にこのように言うのだ。
 添乗員が自慢です?
精神面、生活面、金銭面で余裕がないと、とても、旅行会社かいう下記のような添乗員にはなれない!
「経験豊富な」「経験豊かな」「良し悪しは添乗員で決まる」「きめ細かな」「コンシェルジュ」

客もまた、貧乏だ。
特に、精神面でとても貧乏なのだ。
確かに、金銭面でも、「貧乏くさい」者はたくさんいるが、ほんとうの貧乏であれば旅行に行かないであろう。
「貧乏くさい」者の貧乏くささは、精神面が原因のことが多い。

水が有料だと聞くと飲物の注文はせず、パサパサの肉やパンを必死に飲み込もうとしている者。
それでいて、路上の売り子から、プラスチック製のカメオのブローチ4個を1万円で買う者。
1000円の入場料の美術館が自腹だと聞くと、庭園だけ写真撮って帰る者。
空港のイミグレーションで、反復横跳びのごとく、ブースをずる入りする者。
5000円をホテルで両替して大損したかのように文句をいう者。
トイレチップがもったいないから、ホテルまで我慢している者。
朝食のビュッフェのパンやフルーツ、あげくは、ジャムやバターまで、カバンにつめて持ち帰る者。
日本製のカメラやビデオを自慢する者。
ガイドの説明を一生懸命、メモしている者。
・・・・・・・・・・・・・

これらは、旅行者自身の問題ではなく、旅行会社や添乗員が、自分たちが都合いいように、誘引した気がするのだが。
だから、旅行会社、そのマニュアルどおりに動く添乗員の責任は大きい。



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観光再生:小田実と柳田国男

中央公論の観光再生に関する特集記事について、以前、少し疑問に感じたことを書かせてもらった。
小田実氏が、1969年に出した『原点からの旅』のなかで、上記の参考になる部分があった。
もう40年も前に書かれたものであるが、今でも十分、納得することができる。


 観光についての「地元」的感覚は、「地元」という特殊を求める感覚ではない。
「地元」という地の利にどっかりと腰を落ちつけて、そこからあたりをぐるりと見まわす余裕をもった感覚ではない。
 それは、まず、第一に、普遍を求めるだろう。あるいは、普遍という名の都会を求める。
ご馳走にはアユがつきものだという普遍的な固定観念がまずあって、それ以外のものは受けつけないという感覚ーーそれが、私のいう「地元」的感覚なのだ。
 田舎でよく経験することだが、たいへん景色のいい海岸などに出くわして、私が、「景色がいいですね、ここは」と言うと、地元の人が「こんなのただの海岸ですよ。××岩のあたりのほうがずっといい」と答える。それでその人に連れて行ってもらって××岩に行ってみると、実はなんのへんてつもないつまらぬ夫婦岩であることが判る。れいれいしくシメナワなどつけてあるが、それは、つまり二見浦の夫婦岩のイミテーションにすぎないもので、私の眼には、さっっきの地元の人の眼には逆になんのへんてつもないものに見えた「ただの海岸」にすぎないもののほうがはるかにすばらしい景色に見える。
 「旅していて、何度、私はこうした経験をもったことか。この普遍的な景色の美醜についての固定観念は人々の意識を長年のあいだ支配して来たのだろう。
そして、その固定観念もまた、変化する。
今日人はたとえば日本アルプスの美をたたえるが、昔の農民をその場にたたずませれば、彼は言下に言うにちがいない。
「なんだ、こんなの、ただの山じゃないか。」
そして、彼は、あたりに富士山型のつまらぬ山を探し出して、「××富士」と名をつけてよろこんだにちがいない。

「尾道で困るのは、まず、第一にそういうことです。」
大阪から着任してまもない交通公社尾道営業所長の嶋村さんもまた、そのことを言った。
彼は、尾道を観光地として大きく売り出そうと心を砕いている人だが、彼がいたるところで出会うのは、「都会」的感覚と「地元」的感覚のズレだった。
 尾道の対岸の向島とのあいだに市営の渡船がひっきりなしに往復していて、渡航料は五円。嶋村さんは夕涼みがてら、子供らを連れてよくこの渡船に乗る。
「都会から来た人にはこんな渡船でも面白いんですね。ところが地元の人となると、いつも乗ってるもんだから、なんだ、こんな渡船、ということになる。」
 実際、彼がバーの女の子のまえで、渡船に乗って向島に行って来たことを言うと、すぐ、二人が異口同音に、
「なんでまた向島なんかへ行って来はったの、イモ掘りですか。」
 彼が尾道の美を説く。
すると、地元の人は、「たいしたことないですよ、ただの海(山、寺・・・・)ですよ」とことばを返す。
それでいて、ふしぎなことに、たとえば、テレビで林芙美子を主人公にしたテレビ・ドラマ『うず潮』が評判になると、地元の人々も尾道の美について語り出すのだが、それはいったんテレビ・ドラマを通過した上での美なのだ。
つまり、テレビ・ドラマを通過することによって、尾道という地元は普遍を獲得し、人々は安心して、その普遍的美を認識し始める。--極端に言えば、そうした状態がどこにでもあるのではないか。

 これは、もちろん、尾道という一つの「地元」にかぎられたことではない。
むしろ、都会をふくめて日本全国にひろがった現象だろう。
嶋村さんは、尾道の「文学のこみち」をそうした「地元」的感覚にとらわれない観光施設としてあげる。
たしかにアイデアとしては卓越なもので、千光寺の山のいただぎから千光寺に下る道が「文学のこみち」なのだが、道の両側の岩のところどころ、尾道の風物をうたった俳句や小説の一説などがきざみ込まれている。
たとえば、その「こみち」をかなり下って、ロープウェイを前景に、後景に海のひろがりをずっと見渡せるところに来ると、そこに、林芙美子の『放浪記』の一節「海が見える」云々の文句がきざみ込まれていて、そこで、人々はいっせいにカメラのシャッターを押す。
 ここで当然の疑問を思い浮かべることができる。
そこにもし林芙美子の『放浪記』に一節がなかったなら、いったい、何人の人間が立ち止まり、シャッターを押すか、ということである。
もちろん、そこが景色のすばらしいところなので、シャッターを押す人がいても決してふしぎではないが、それにしても、林芙美子云々のことがなければ、その人たちの数はるかに少ないものであるにちがいない。
とすると、結局のところ、「都会」的感覚と「地元」的感覚も根本のところでは一致しているということになるのだが、すくなくとも、そうしたなんのへんてつもない岩に林芙美子の『放浪記』をきざみ込ませること自体「都会」的感覚なのだろう。
「地元」的感覚から一歩抜き出たところに、その岩はたっているようだった。

 簡単に言えば、都会は「地元」に「地元」を求めるのだ。
その「地元」がほんとうに「地元」であるかどうかは問うところではない。
たぶん、それはそうではないのだろう。
都会の求めるものは「地元」ではなくて、「地元」的なものであるにちがいない。
これはよく方言を使った演劇や映画にあることだが、方言をほんとうに使うと、都会人にはさっぱり判らないので困る。さりとて、方言のあじわいは出したいーーというところで、方言らしいものを入れた劇なり映画なりができあがる。
そこで話される方言は方言そのものではなくて、方言を標準語という普遍的なもののなかを通じて、普遍的要素をつけ加えたいくぶん人工的なことばなのだろう。
しかし、人はそれを満足する。
「これは尾道のことばだよ」と。
 
ここで困るのは、「地元」がその「地元的なるもの」を、普遍的なものとして追いかけることである。
つまり、いつまでたっても、「地元」は「都会」を息せききって追いかけるだけにとどまる。
そして、ときには、「地元」と「都会」の時間的ズレは致命的なものとなる。
「観光城」の場合がそのいい例かもしれない。
「観光城」は、たしかに、はじめは「都会」が求める「地元的なるもの」の典型であったにちがいない。
「都会」は「観光城」に「都会」にない「地元的なるもの」の幻想をもった。
けれども、「都会」の感覚は急速に変化する。
ことに、高度成長にあふられて、その変化は速い。
あっちこっちの「地元」がこれこそ「都会」が求める「地元的なるもの」だとみなして「観光城」をぞくぞくとたてたときには、「都会」の関心はもう次のものに移ってしまっている。
 いい例が、かつての『君の名は』ブームにあやかった各地の観光施設なり名物なりだろう。
マチコさんがここでどうしたと言ったところで、「都会」から来る若い学生たちの何人が『君の名は』ブームを知っているのか。困ったことに、「地元」はそのブームがまた永遠につづくものだと思っていることである。
『うず潮』についても、『おはなはん』についても同じことが言えはしないか。
 この競争は永遠につづく。
いつでも「都会」は「地元」に先行して「地元的なるもの」を求め、「地元」が「地元的なるもの」をつくり出したとき、あるいは、それに似せて自分をつくりかえたとき、「都会」の関心はすでによそに去ってしまっている。
あとには、たとえば「観光城」のようなグロテスクなものが「地元的なるもの」の遺物として残される。

 こういった競争では、「地元」は考え方を根本的にあらためないかぎり、「都会」に打ち勝つことは不可能だろう。
そして、考え方を根本的にあらためるということは、「地元」がもっと「地元」に徹することによってのみなし得ることがらであるにちがいない。
「地元」が「地元的なるもの」の幻想にふりまどわされずに、自分のプログラムをしっかりともつことーーーそれがまず第一に必要なことであるのだろう。

 嶋村さんは、プログラムの必要性を説いた。
彼自身が、尾道を中心としたさまざまな観光ルートを考え出していて、一度は尾道の旅館の女中さんたちをひきいて、そのルートの一つを実際にまわってみた。
嶋村さんによれば、いや、これは彼だけの意見ではなく旅する機会の多い人たちに共通する意見だろうが、「地元」がいかに「地元」について知らないかはおどろくべきことだ。
私も旅館の女中さんなどから「地元」の知識について十分な情報を得られたことは、これまでまれにしかない。
「それで、とにかく、宿屋の女中さんから始めようと思うたんですわ。」
 嶋村さんは駅前の交通公社の小さな建物のなかで言った。
ルートは、尾道~生口島瀬戸田(耕三寺)~大三島井の口~大山祇神社~大久野島~尾道。
そのとき女中さんたちにくばったパンフレットを見せてもらった。
まず、「見ておくべきポイント」として、たとえば、「尾道駅前桟橋のキップ売場と船客待合室」、「瀬戸田ゆき船会社名と桟橋の発着場」、「瀬戸田までの所要時間」、「お船の大きさと定員」というようなことから、「耕三寺とは・・・・・・・ときかれたときにどう答える?」、「国民休暇村とはなんでしょう」というようなことがらに至るまで、一問一答のかたちで書かれている。

 私もそのルートを実際に通ってみた。
嶋村さんが強くすすめるだけに、ルートには、奇妙な表現だが、海と島がふんだんにあて、たしかに美しい。というよりは、さっぱりとさわやかだ。
そのくせ、耕三寺の門前市の瀬戸田には、タオルなどのつまらぬお土産を売る店がずっとたちならんでいるのであるが。
そして、井の口では船をおくれると、バスは遠慮会釈もなく出てしまい、私はカンカン照りのタンボのなかの道をかなり歩いたのち、やっと、タクシーをつかまえた。
 耕三寺は奇妙なお寺だった。
 どれくらい奇妙かというと、たとえば、金ピカのゴテゴテした門がたっていて、そばに寄ってよく見ると、これが日光は東照宮の陽明門を模してつくったものであることが判る。
門のまえにたって下を見ると、そこに塔がたっていて、それは室生寺の五重塔を模したもので、うちろをふり返る平等院の鳳凰堂がゆったりとひろがり・・・・・
 地獄のイミテーションまであった。
・・・・・・この耕三寺、どこを歩いていても、奇妙にチグハグな感じがしてならない。ガラクタの寄せ集めの面白い感じはたしかにあるのだが、創立者の意志に反して、どうも母をたたえるような殊勝な気になかなかなれないのだ。
 これなど、おそらく、「地元」的感覚によって、普遍を求めた一つの例なのだろう。
ただ、その普遍がそんじょそこらの普遍でなかったこと、あるいは、「地方的なるもの」でなかったことが救いとなっているにちがいない。
すくなくとも、「観光城」のみみっちさはここにはない。



 上記のなかで、「地元の人が地元を知らない」というようなことが書かれているが、この少し変形になるかもしれないが、視察旅行で海外を訪問する場合、よく現地支店の駐在社員が空港まで迎えにきて、滞在中、あれこれと団員のお世話をしてくれる。

日本から現地に到着した団員も、開口一番、必ずといってよいぐらい、次のように言う。
「現地の方(駐在員)が来てくれたなら、本当に安心。何でも知っているから安心!」

この駐在員は、「株式会社日本」といっていいぐらい、企業兵士となり必要以上に動き回る。
私も最初、お客同様、現地駐在が同行してくれるなら、安心と思っていた。
駐在員も団員の期待に応えようと、「まかしてください」と動く。

しかし、いざ日程がスタートすると、結構なくらい失敗してくれるのだ。
特に、観光などに関して、団体で動く場合の要点や希望というものを理解していないことが多い。
駐在員の場合、観光箇所について、自分だけで下見したのだろうから、ポイントよく案内できなかったり、空港へも自分一人なら飛行機出発30分前までに空港へ行けばいいのだろうが、団体ではそうはいかない。
いくら言っても、「私はよく知っているんだ!」という風だったりする。
けっこう、現地駐在員は、現地のことを知らないのだ。それも、何もかも知らない。
それでいて、日本のことは細かい事件までよく知っていたりする。
きっと、外国へ来て、日本のほうばかりみて、暮らす習慣がついてしまったのだろう。
 こんなふうだから、今では、駐在員が同行するという時にも、注意して気を緩めないようにしている。



今のような大不況では、上記の時代とは違って、「地元」的感覚や「都会」的感覚だけで、新たな観光資源を見出すことはかなりむずかしいと思う。
しかし、消費者が観光に求める力学は、この40年間、基本的に変わっていないのではないかと感じる。
もしかしたら、逆に、以前以上に、普遍的な「地元的なるもの」を求めているかもしれない。
地元の人も意識していなかった、すばらしい「地元的なるもの」を是非、見つけてほしい。
都会的センスも必要かもしれない。もしそれがなければ、「地元」的感覚でつくられた夕張市のテーマパークやスキー場のようになってしまうかもしれない。
 小田実がいうように、

<いつでも「都会」は「地元」に先行して「地元的なるもの」を求め、「地元」が「地元的なるもの」をつくり出したとき、あるいは、それに似せて自分をつくりかえたとき、「都会」の関心はすでによそに去ってしまっている。
あとには、たとえば「観光城」のようなグロテスクなものが「地元的なるもの」の遺物として残される。

 こういった競争では、「地元」は考え方を根本的にあらためないかぎり、「都会」に打ち勝つことは不可能だろう。
そして、考え方を根本的にあらためるということは、「地元」がもっと「地元」に徹することによってのみなし得ることがらであるにちがいない。
「地元」が「地元的なるもの」の幻想にふりまどわされずに、自分のプログラムをしっかりともつことーーーそれがまず第一に必要なことであるのだろう。 >



もう一つ、最後に、明治から昭和にかけて活躍した民俗学者・柳田国男の言葉を紹介したい。

そのなかで、次のような趣旨のことを言っている。
日本三景は、宣伝によって、普遍的「地元的なるもの」として称賛を保持している。
しかし、実際は大同小異、他の観光地と変わらない程度だ。
そのことは、どこでも日本三景になりうるし、今でいえば、どこでも、世界遺産になりうる。
そうならなければ、観光客にとってもとても不幸なことだ。

『青年と学問』柳田国男著より

・・・・或る土地或る時代の現実は、そのお蔭で(文章家の旅行)はじめて我々の智識となるのである。
・・・・・しかしながらこれが一方には、為にする宣伝の用に供せられた場合も多い。
たとえば今日九州で耶馬溪鉄道などといって、行き止まりの山懐へ一本の軽便鉄道を引き込むことになったのも、山陽先生の海内第一と称した結果にほかならぬ。
または日本三景などという名前が今に至るまで、多くの閑人の行動を束縛して、自在に山野を楽ましめざる原因も、つまりは文人が余計な組合せを案出したお蔭であって、激賞は各人の勝手とはいうものの、あまり出来過ぎた美文もやや近所迷惑である。
そのためにまず我々の旅行術が、やや正道を失せんとしているのである。
 支那などはじっさい平蕪広漠の地であって、十日半月の旅行を重ねて、わずかに山水の変化を見るという有様だから、風景の記事も珍重せられてよいのだが、日本はあたかもその正反対で、むしろ応接にいとまなしという実際である。
その数限りもない好景勝の中で、わずかに偶然が引き合わせた二三の箇所を見たばかりで、もうこのほかには好い景色はないような最高級の形容をするのは有害であった。
それというのが文章は美しく印象深く書くのが本意であり、詩歌もまたその通りであったからで、風景の紹介宣伝はいわばその結果に過ぎなかったのである。
純なる旅行道の立場から判断すれば、好紀行はかならずしも好旅行の表紙ではなかったのである。






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