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上海・・苦力(クーリー)、外灘(ワイタン)

上海メモラビリア上海メモラビリア
(2003/05/22)
陳 丹燕

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 この本は、上海人の著者が、上海人の視点で、今の街風景を詩的に描いてくれる。
珈琲店(Cafe)、街路など・・・・・
「地球の歩き方」とはちがった、もうひとつの上海を、この本を読めば感じとれるのではないかと思う。
違った旅ができると思う。
この本の日本語訳が、またすばらしいのだと思う。

 戦前、上海を訪れた外国人にとって、「苦力」(クーリー)=車夫と呼ばれる中国労働者は、外国人が一番最初に接する中国人であった。そして、人権とか自由とか平等とか平和とかいうヒューマニズムの対極で生き蠢いている「苦力」(クーリー)に、外国人は、強い衝撃を受けたようだ。
だから、当時の小説や記録を読むと、必ずといっていいぐらいに、「苦力」(クーリー)に対する思い出が記されている。
彼らが、『魔都・上海』の案内人であるかのように。
上海・・・金子光晴 
1937年の上海(ロベール・ギラン)

『上海メモラビリア』の著者、陳氏は、その「苦力」(クーリー)との会話から、上海の激動の時代を水晶玉にゆらゆらと映し出してくれる。

『上海メモラビリア』陳丹燕著 莫邦富+廣江祥子訳より


外灘の輪タクに乗って

夜、外灘へ行くと、以前は暗澹(あんたん)としていた河沿いの建物群が、新たに設置された照明でまばゆいほどにライトアップされているのが見える。バロック、アールヌーボー、シカゴ派、ロマネスクといった百年以上も前の欧風建築が、世の中の変遷を経ても損なわれることなく、悲しみにも似た気配を帯びて、上海の赤らんだ夜空に黙々と佇んでいる。透明なアイスキャンディのようにライトアップされた夜も、こうした気配が払拭されることはない。それらの建物はいつでも人びとの想像をかきたてる。
 外灘は昔から上海人の誇りであった。排外運動の最盛期だった五〇年代、六〇年代ですら、上海製の人工皮革の黒い旅行鞄には、河沿いのとんがり屋根とプラタナスという外灘の風景が白くプリントされていた。上海を訪れて外灘を見ない者は、上海を訪れていないのと同じである。北京を訪れて万里の長城を見ないようなものだ。
 夜の外灘にはしめった風が吹いていて、少し歩くと外気にさらされた皮膚がしめってくる。鋳鉄の街灯をひとつ、またひとつと通り過ぎる。外灘の補修を行ったとき、租界時代の欧風街灯を模して作られたものだ。

_waitan_.jpg

イミテーションはどこかしら強度や年季、緻密さに欠ける気がする。同じように灯りをともし、同じように立ち、同じように黒々としていても舞台セットに見えてしまう。愛を謳いあげるロミオとジユリエットが恐る恐る立つ、ベニヤ板の書割のバルコニーのようだ。かつて外灘にあった鋳鉄の街灯は、五〇年代の鉄鋼大生産運動で製鉄にまわされたという。精製される機会が与えられることは租界時代の遺物にとって幸運だと当時の人びとは考えていた。そしていま贋物が夜霧のなかに煌々と輝き、若者がそれらにもたれて写真のポーズをとる。フランスのファッション誌から学びたてのスタイルだ。
円明園路まで来ると、暗い旧式の街灯の下、車体を赤く塗った輪タクにまたがった老人の姿が目に入った。灯りは黄色く濁り、ふたつの古い高層建築の下の、街路樹もない狭い道を深い谷のように照らしている。和平飯店と銀行ビルの裂け目に停まる老人と輪タクは、歴史書の隙間から落ちてきた積年の挨のようだ。木製の赤い車体に、黄色い防水布の幌、汗だくの車夫。三毛の漫画(張楽平の漫画。三毛は主人公の少年)に描かれたオールド上海だ。車夫の後ろには得意げな顔をしたアメリカ人の船乗りと先の尖った靴をはいた若い女。それは解放以前の大衆の苦難に満ちた日々である。オールド上海時代の輪タクは現在七台しか上海に残っていない、とドキュメンタリー映画で言っていたのを思い出した。
 老人は真っ白そうに見えるタオルで力いっぱい座席を払うと、私たちを見て高らかに言った。
「輪タクで夜の外灘を見物するのもオツなもんだよ」
 さわってみると白い布で覆われた座席は硬く、布の下は防水布のようだ。昔の人は痩せていたのだろう、ふたりで乗るとどうにもきつい。
老人は指を二本出して、二十元を要求した。灯台から外白渡橋へ行き、円明園路に戻って古い建物を見て、最後は雲南路の小紹興酒家で鶏粥、というルートだ。
「二十元なんてタクシーより高いじゃない」と私たちは反論した。
「タクシーがなんだい。座っちまったらなんにも見えねえ。この車なら、急ぐときは思いっきり漕ぐし、スイカの種でも食べながらゆっくり景色を見るときにはゆっくり漕ぐ。昔のお姐さんたちが足を組んで座る姿は、そりゃあ、きれいだった。舶来のアメリカのストッキングの一本線をひん曲げることなく組んでな。通行人も景色を眺めるようにお客を見たのさ」
 なんとまあ、昔のコールガールのことではないか。
「お天道さまが出ると、ぱんと杭州の絹傘をさして、通りにコロンが香ったもんだ」
 それはまたずいぶんと艶っぽい。『子夜』(茅盾の長編小説)のご隠居が田舎から出てきたその日に驚きのあまり卒中を起こしたのは、この老人の輪タクに乗っていた女性のせいだったかもしれない。
 昔話をはじめた老人はなかなか止まらない。彼はきらきらと煽るような笑顔である時代の物語を繰り広げてくれた。『旧上海の物語』や『新上海の物語』を読んで育った私たちにとって、それはなんとも神秘的で、なんとも似て非なる、なんとも贅沢な時代であり、没落地主の家に生まれ、落ちぶれた子孫たちが昔の家系図を見るように、私たちはそれを眺めるのだった。
 輪タクはオランダ銀行の角を曲がり、黄浦江沿いの大通りに入った。しめった風が顔をなでる。                                            灯りに浮かんだ税関ビルの銅製の扉が、覗きからくりのように、私たちの目の前を音もなく掠(かす)めていつた。老人が時計台を指さし、「あの時計はイギリス製で、ずいぶん長いこと使っているのに壊れることもない」と言った。
 東風飯店の外壁は無数の豆電球で飾られ、にぎやかだが貧しげだ。子供がコーラの赤い紙コップを手に建物から出てくる。いまではここは子供たちに大人気のフライドチキン店である。
 老人は言った。
「昔は上海でいちばんの金持ちが金を使う最高級の場所だった。建物もきれいで、出入りするのは有名人ばかり。いまはこんな体たらくになっちまったがな。上海が栄えていた頃をあんたがたは知らん。ご両親だってまだ湊垂(はなた)れだったろうよ」
「建物に入ったことはありました?」
「わしらのような苦力が入れるもんか。車だって停められねえ。ここへ来る人はみな自家用車で乗りつけるのさ。自手袋をはめた運転手が、いかにもって感じでな」
「じゃあ、いまは嬉しいでしょう。なかに入れるようになって」
「なにが嬉しいもんかね。なかに入ったところで別物さ。昔はそりやあ立派だった。いまは入りたくもないな。息子の結婚式をあそこでやったが天井から水が染み出てた」
 老人は背中を大きな鳥のようにそびやかし、手でハンドルを支え、両足でぐいっぐいっとペダルを漕ぐ。コツを心得た漕ぎ方である。十六の年からこの輪タクを漕いで、もう六十年。蘇北(江蘇省北部)の田舎から出てきた若者が、いまとなっては、足じゅうに青筋を立てた頑強な老人である。
「昔はわしらも客の品定めをしたもんだし、洒落た人を見れば『ハロー、ハロー』なんて声をかけた。
外人の客がステッキで足元を叩いて『ハリー、ハリー』 っていうのは、急げって意味なのさ」
 私たちは仰天した。この老人、英語も話すとは。
 老人は笑って言った。
「客が車から降りるときには『グッドバイ、サー』 ってな」
 街灯が老人の笑みを照らした。如才のない笑顔だ。
 古い灯台が見えてきた。外灘のはずれに小さく無益に立っている。それより先は、四九年以降、しだいに広がっていった新しい外灘である。とうに見捨てられた真っ暗な灯台は、まるで未亡人のように、時代に取り残されながらも抒情たっぷりに佇んでいる。かつてそれは港に入る船を導くためのものであった。船は金儲けの夢を抱く者をほうぼうから運んできた。車を漕ぐ老人も船で上海にやってきた。金儲けには生涯縁がなかったが、上海に対する懐旧の念に変わりはない。だが、決して自分のものにはならなかった上海の風情を、彼はどうして懐かしむのだろう。
 老人の鳥のような後ろ姿。音もなく進む木製の古びた車体。霧にかすむ灯りの下で、老人のあとについて空を飛んでいる気がした。これほど熱心に、そして失望したようすで、かつての上海を語ってくれた人は初めてである。どうして彼は熱く語るのだろう。拠りどころをなくし、生活の目標をなくし、とうとう追憶のなかに何かを見つけたかのように。
「昔の外灘はどうでした?」
「いまよりずっときれいだった。外人が子供連れで散歩して、黄浦江では金持ちが遊覧船で歌ってた。金のあるやつが来る場所だったよ」
 いまの人びとが憧れ、懐かしみ、かつて自分たちが手にしていたと思っているのは、こうした日々なのだろうか。
「昔はよかったですか」私は老人に開いた。
「金があればよかったろう。金がなきゃ、いつだってよかないさ」
 この言葉こそ、父の世代の理想高き学生革命家が言っていた、「社会に存在する不公平」だとか「革命の原動力」なのだろうか。
「もしお金があれば?」
「人生、誰だって道楽して派手にやりたいに決まってる」
 木のない狭い道。
 外灘の大きな建物。
 南京東路の建物が脇を掠めていく。かつてユダヤ人が阿片で稼いだ金で建てた極東一を誇るビルディングだ。
 外白渡橋の奥に建つ上海大廈が脇を掠めていく。かつては上海で最も豪華なホテルのひとつだった。
 夜霧のなかを外灘公園(現在は黄浦公園に名を改めたが、上海人の多くはいまだに外灘公園と呼ぶ)の水際の黒い木々が視界を掠めていく。ここでは、かつて公園口にあった「犬と中国人は入るべからず」の立て看板をめぐって中国人宣教師たちが租界の巡警に談判した。若い宣教師が殴られると、ひとりの若い女性が身を挺して彼をかばった。こうして知り合った彼らはやがて結婚し、ふたりの国母、宋慶齢と宋美齢が生まれた。
 上海の遠い昔が世の移りかわりを経て、伝説となった。
 突然、遠く南京路に、さまざまな高さで光を発しているネオンサインの山が見えた。かつての輝きを取り戻したいという思いが、いままさに光り輝いている。古い店の名が復活し、古い建物が再建され、人びとはルーツ探しを楽しむ。まるで十九世紀の西欧の小説に登場する子供のようだ。肌身離さず持っている出所不明のハート型の釦のペンダントのなかには貴婦人の肖像が描かれ、鼠のような貧しい暮らしをしている子供は、あるとき自分が本当は貴族の私生児であることに気づく。いま、街じゅうが自分のペンダントを探している。私が子供だった頃には暗い川面を風が渡っていた外灘は少しずつきれいになり、ついにペンダントを探しあてたようにも見える。だが、内心ではそれが金かどうかがわからず、自信なげに噛んだり、さすったりしている。
 オールド上海の街から輪タクを漕いでやってきた老人も。
 そして、彼につづく者たちも。

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上海メモラビリア

 半年で、まるで違った街へと変貌してしまう上海。
 それぐらい、破壊と創造を繰り返しつづける上海。

 古い時代の小説や写真に出てくる上海は、もうここには存在しない。
たかが、20数年前を知っている私でさえも、今の上海を称賛すると同時に、過去への哀愁を覚える。
それに比べて、上海人というのは、平気でこんな創造をしちゃうなんてと、驚きと愕然を抱く!

そう思っていたら、上海人の書いたある本をみつけた。

上海メモラビリア上海メモラビリア
(2003/05/22)
陳 丹燕

商品詳細を見る


そこには、上海人もやはり、古い上海を大事にしたいという想いを強く持っていることが書かれていた。
 この本は、上海人の著者が、上海人の視点で、今の街風景を詩的に描いてくれる。
珈琲店(Cafe)、街路など・・・・・
「地球の歩き方」とはちがった、もうひとつの上海を、この本を読めば感じとれるのではないかと思う。
違った旅ができると思う。
この本の日本語訳が、またすばらしいのだと思う。

『上海メモラビリア』陳丹燕著 莫邦富+廣江祥子訳より


河畔のオールドホテルにて

黄浦江沿いに建つ緑の銅板屋根に御影石造りの和平飯店は、上海人にとって上海一のホテルである。
レトロ好きな上海人にとって、そこは心の故郷だ。
陽射しの強い夏でも灰暗く重々しい黄色い照明光に満ち、気持ちがほんの少しふさぐ。
歳月で黄みを帯びた白い大理石は、酷暑の夏でも清々しく優美で、足指をさらした靴で踏み入れてはならないという気にさせる。
 ロビーを抜けると目に入る背の高いセピア色の腰板、黄金色の銅手摺。
アールデコスタイルの黒い鋳鉄がたおやかでロマンティックな曲線を描く。
すべては、いにしえのこと。
古びた肘掛け椅子に腰を下ろし、カップが運ばれてくる前からコーヒーの香りが漂ってくる。
幾年幾杯ものコーヒーが少しずつとどめてきた香りだ。
ものの一分もしないうちに在りし日の人びとやコーヒーに思いを馳せ、ノスタルジーが自然と湧いてくる。
過ぎ去った時代に戻りたいとこいねがう人ならなおのことだろう。
彼らの故郷に誇れるところがあるとすれば、それはこの水辺のオールドホテルなのである。
 このホテルは一九二〇年代のシカゴ学派のゴシック建築である。
外灘(ワイタン)初の高層ビルディングであり、かつてサッスーン・ハウスと呼ばれたこの建物は、上海で財を成したイギリス系ユダヤ人のサッスーンによって建てられた。
その造形の美しさと豪華さ、またたくまに極東の大都市となった上海の一等地である黄浦江沿いにあるということから、レトロ趣味の上海人が生を享けるはるか以前に「極東第                              
一楼」と称され、戦前の東洋で最も絢爛(けんらん)たる場所であった。
 この御影石造りの建物は、上海に暮らした西洋人の御伽噺(おとぎばなし)であった。
薄幸の子供が橋のたもとで金の斧を拾う物語のような。
思えば、西欧で安定した生活を送り、とりたてて大志を持たない人間がコーヒーもチーズもない土地をめざすことはないだろう。
だが貧しくとも進取の気性に富んだ人びとはトランクと冒険心を抱えて上海を訪れた。
サッスーンもそのひとりであり、しかも彼は足が不自由だった。
この急速に発展をとげた都市によって財を築き、故郷で思い措いていた暮らしを手に入れた彼は、それを享受し、そして誇示した。
水辺のホテルは夜ごと楽の調べに満ち、ウィーンのコーヒー、ニューヨークの黒い絹靴下、パリの香水、ペテルブルグのロシア皇女、ドイツの写真機、ポルトガルのシェリー酒が、この西洋人の成功譚に華を添えていた。
そして、マーシャル将軍、スチユワート・レイトン大使、バーナード・ショー、チャップリン、宋慶齢、魯迅など内外の名士が真鍮の回転扉をくぐり、あらゆる物音を吸収する赤絨毯の上を歩いたのだった。
 暗殺団に命を狙われ、セピア色の扉の向こうに一年じゅう、じつと身をひそめていた者もいた。
アメリカから訪れた劇作家はここで『私生活』という本を書き上げた。
ヨーロッパで九死に一生を得て、第二次大戦中をここで過ごしたユダヤ人もいた。
つねに白いカーテンに閉ざされたその部屋は母の胎内のように、ユダヤ難民支援組織によって上海を離れるその日まで彼らを包み、彼らを守り、彼らの行動の自由を制限していた。
 長く伸びた廊下はひっそりとして、青銅製の壁付灯のほのぼのとした黄色い光に照らされ、両側の部屋の扉は固く閉ざされている。
廊下の端に立って、光に包まれた扉を眺めていると、その扉が開いて一九四〇年代の人びと-バックシームの入った絹靴下をはいた淑女や、当時流行りのエジプト煙草をくわえた紳士―がなかから姿を見せるのではないか、という気持ちになる。
 オールドホテルは八十年間、何も変わらない。
 上海という街と同じく、いくどとなく世の変遷を経ていようとも。
 ここはかつて上海にこぼれおちた西欧の欠片だった。
いまもそうだ。

ShanghaiBus[1]

数十年が過ぎて上海には外国人旅行者が戻り、西欧の老人たちは大勢でここを訪れて、若かりし日に見たものが完全に姿をとどめているのを目にする。
セピア色の腰板、アールデコの曲線模様を描く鋳鉄、いにしえの西欧を思わせる心なごむ暖色系の照明、それらが醸す感傷的な雰囲気。
そして、英国式バーのオールドジャズバンド。
一九四〇年代、まだ若者だった頃からジャズを演奏している彼らは、三十年の空白ののち、再び外国人のために以前と変わらぬ曲を奏でるようになった。
 一九九一年から、有名な海浜娯楽団が年に一度の大パーティー会場に和平飯店を使うようになった。
往年の一夜を求めて、欧米やオーストラリアから往時を懐かしむ名士たちが訪れる。
その晩、ヨーロッパ宮殿様式の大広間では、磨き抜かれたクリスタルのシャンデリアすべてに灯りがともり、南欧から運びこまれた葡萄酒の箱が空になる。
床に撒さ散らされた指輪。
オールドホテルの威厳、絢爛、感傷、高貴。
海浜娯楽団のその晩にすべてがシンデレラの物語のごとく復活するのだった。
 その夜、オールドホテルに突如建った生気を目の当たりにした上海の若者は呆気にとられた。
その場に居合わせたある若い写真家は、それを機にオールド上海を熱烈に愛するようになった。
和平飯店がのろのろした昇降機を新しくするというときには最も執拗かつ最も激しく抵抗し、オールド上海にちなむあらゆるものを交換したり、オールド上海時代の建物を取り壊すことに反対している。
一九九二年、和平飯店は世界的権威であるホテル協会によって世界の名ホテルのひとつに選ばれた。
この栄誉に浴したのは中国で唯一ここだけである。
 往年の何もかもが建ったかのように、英国風の部屋には暖炉、米国風の部屋には銀の燭台、スペイン風の部屋には高床式の寝台。
給仕の黒髪はポマードで艶やかに光り、控えめだが心のこもった笑顔を浮かべている。
「和平飯店でコーヒーでも」は、レトロにひたる上海の若者たちの気持ちをうまく表現した言葉である。
夕暮れに彼らは椅子に腰かけ、もし五十年前に生まれていたらどんな暮らしをし、どんな物語が待っていただろうかと思いをめぐらせる。
それは隣の席に座る西欧の老人よりも夢見心地な、上海っ子ならではの感情である。
西洋化した豊かな暮らしに対する心酔。
そして自分の街が歩んできた歴史を心から大切に思う気持ち。
もっと英語力をつけ、ナイフとフォークにも慣れ、そして西欧の音楽も好きになり、いつの日かアメリカのパスポートを、というのが彼らの夢だ。
そのときは爪も黒く汚れていたりはしない。
 こうした憧憬もこの街の若者に潜在的な伝統である。
とりたてて話題にのぼったことはないが、いままで連綿と続いてきた。
 水辺のオールドホテルには再び夜ごとの楽の調べ。
当然ながら主はもういない。
 上海で生涯を終えた彼は、虹橋の荒涼とした墓地の一角で眠りについている。
そこは外国人墓地であり、周囲には彼と同時代に上海で亡くなった多くの西洋人が埋葬されている。
彼の墓だけが青々としたモチノキに囲まれているが、地面にはえた藤の蔓は墓碑を覆い尽くすにはいたっていない。
ありきたりの石材で作られた墓碑には、ごくシンプルな黒い文字で名前が刻まれている。
 それでも彼は著名人であるため名前の彫り間違いはない。
ほかの墓は名前の綴りが違っていたり、生年月日が欠けていることも多い。
 外国人で混みあう墓地には、墓碑が肩を寄せ合うようにして異国の芝の上で横たわっている。
 ここもまたひつそりと静かで、黄金色の陽光が輝き、灯りのともったオールドホテルの廊下にほんの少しだけ似ているのだった。

SHANGHAIpeace[1]
和平飯店から黄浦江を望む




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1937年の上海(ロベール・ギラン)

 フランス・アヴァス(AFP)通信の記者ロベール・ギランは1937年秋、中国行きを命じられる。

その年の7月、日本は、中国に対して盧溝橋事件をおこし、その戦況は、上海まで拡大していた。
日中戦争のはじまりである。



ロベール・ギランは、シベリア鉄道を使って、モスクワ、イルクーツク、満州里、ハイラル、チチハル、ハルピン、
ここから、大連まで行き、船で上海まで渡ろうと思っていたが、このルートが通行止めになっていた。
そこで、急遽ルートを変更し、ハルピンから奉天、そこから朝鮮半島を釜山まで縦断し、一旦、日本へ、長崎から船で上海へ行くことにした。
フランスを出てから約20日間の旅であった。

USSChaumontShanghai[1]


1937年11月、ロベール・ギランは、まだ戦火の続く上海へ入場した。

『アジア特電』ロベール・ギラン著より

 
ヨーロッパが中国の成行きをよく見まもっていなかったにせよ、
上海の方でもまた、時代の禍いに対して、一種尊大な無関心から抜け出ることはなかった。
そこには、矛盾はするが並存している二つの理由があったと思う。
富める者と成金のシニシズムと、自分たちの惨苦の囚われ人となっている貧しき者の、あきらめから来る慣れである。
饗宴と、金と、歓楽の上海は、わたしにはあまりかかわりのない世界だったし、わが仲間にとっても同様だった。

ShanghaiHennessey[1]

目前の状況と職業からいって、われわれにはそんなひまはなかったのだ。
しかしその上海は、そこに、われわれのぐるりにあった。
近代中国の前衛、アジアにおける資本主義の旗手として、国際都市上海は、死の宣告をうけた中国世界の崩壊と、次なる革命の到来を、その目で見たくはなかったのだ。
戦争が南京路やジョフル大通りの二キロ先で荒れ狂っているというのに、こちら側では黒ネクタイ着用の晩餐会とカクテル・パーティーの輪舞が続き、主催者の国籍もさまざまなら、出されるアルコールも色とりどりだった。
映画館は満員。人びとはマージャン、ポーカー、ルーレットに興じ、競犬場のグレーハウンド犬のレースや、〈ハイアライ〉のペロタ球技に賭けていた。
中国料理屋では、たっぷりした食事を終えて支払う段になると、会計係は全部の客に聞えるように、鋭い声でよばわる。
「王(ワン)さまは五百ドル札でお支払い!」
その金持の客の顔を立てるためだ。
租界のダンス・ホールに夜は更けて行き、そこで中国人や白系ロシア人のホステスをハントしてから、さんざめきはナイトクラブか娼館に移って、明け方まで続くのだった。
上海の光輝がやどるところはバンド〔外灘〕だった。

shanghai_bund[1]

黄浦江の河岸に面して、共同租界とフランス租界との、威風堂々たるファサードである。上海のシンボルともいえるバンドは、西洋と東洋の出会うところであり、後進の黄色人種に対する白人の優越性を目もあやにひな型として示そうとしていた。
力動感にみちたビルが河に面して途切れのない城壁をつくり、米国の摩天楼のような美しさで、白くかがやき、倣岸さと金の力で人を圧倒し、はるかな高みから目を光らせて、港湾労働者のアジア人のひしめく群を見まもっていた。
インドシナ銀行にいるわが友人たちのような、自己取引業者や銀行家の耳には、碼頭(まとう)のクーリーたちのざわめきは届かないのだろうか。
ゆったりとうねった先は霞む地平線のなかに消えて行く、幅広い銀色のリボンのような河のかなたに、気がかりな中国の動きを、彼らは感じていないのだろうか。
それとも、警戒のためにヨーロッパから派遣され、ずっと下の、あそこの水面に、灰色の姿をみせて碇泊している何隻もの大きな軍艦のおかげで、安心しているのだろうか。
 というのも、バンドは、西洋植民地主義と中国化した資本主義が勝ち誇る光景とその背後の中国の極貧の民、その隷従と苦悩の姿という気がかりな裏面が観察できる場所でもあったからだ。
ここに好んでたむろしていた浮浪者たちと、碼頭で働いているクーリーたちと、どちらが一層悲惨な状態にあるのか、判断はつきにくかった。
多分盗みと物乞いでいのちをつなぐ浮浪者たちだろう。
クーリーたちの方は、晩方から夜まで船荷を積んだりおろしたりして、少くとも数百元はかせぐ。
青い布の服を着ていたり、ぼろをぶら下げていたり、また寒さがゆるむやいなや半裸体となって、彼らは船と岸壁との間にわたされた狭い板を伝って往復する。
木箱や、綿花の大包みや、行李や、巨大な獣を運ぶとき、圧しつぶされそうな重さに背が曲がっても、あるいは二人で組んで、しなう竹の両端をかついでいても、その敏捷なことといったら、網渡りの芸人のようだ。
そして彼らは景気をつけるために、また群集に道を開けさせるために、のどの奥から出るような歌声をひびかせる。
それは三つか四つの悲しい音で、彼らの気分によって限りなく変化し、苦痛と隷属が生むその単調な旋律は、まさに奴隷たちの労働歌である。
ひとりのクーリーの姿が目のあたりに浮んでくる。
セメント袋をかつぎおろしていたその男は、顔もまぶたも、白い粉だらけだった。
体を二つに折り、なかば目が見えず、手を首のうしろにまわして、背負った荷をわしつかみにしている。
ゴールにたどりつくと、腰をぐいと動かして背負った袋を投げ出し、手は自由になる。
一瞬、彼の腕は十字を組み、その顔は責苦のなかで嘆き求めるキリストを思わせるのだった。

 上海の戦闘が終りに近づいたある晩のこと、われわれは優雅なレセプションに招かれたあと、少人数のグループで繰り出し、真夜中に近い街でどこかテラスをさがしてのぼり、その高みから、今夜はいかなる火の手が夜空を染めているか、眺めようとしていた。
バンドの延長であるフランス河岸の突端で、まもなくわれわれは、ある保税倉庫の、巨大でとても近代的な建物にもぐり込み、暗闇のなかで、だだっ広いコンクリートの階段に行き当った。
非常に傾斜のゆるい、奇妙な階段で、ステップは長くてきわめて低く、全体がひとつの斜面というのに近かった。
事実、ここは日中クーリーたちが大きな積荷を背負って各階の置場に運ぶ通り道なのだが、それで万事うまく行っているので、保税倉庫にはエレベーターをつけずにすませているのだった。
二階から上は灯がついており、寝ている人間の群が壮観なほど、続いていた。
コンクリートの踊り場、階段、そしてあいている空間があれば所かまわず、置場の閉ざされた扉までいっぱいに、クーリたちがいた。
昼間と同じ人たちが、この時刻には、ここよりほかに屋根もなく、このセメント・・・時にはアンペラ、袋、古い木箱の板・・・よりほかに臥所もなく、日々の労苦の場所と同じところで、眠っていた。
 あたりの空気は汗の臭いでむんむんしていた。
多くの者は裸に近く、ぼろのなかからブロンズの彫刻のような肉体があらわとなり、たまに濃い色の上掛けも見られたが、それは彼らの顔を一層生気のないものにしていた。
われわれは上に行くのに、彼らを死体のようにまたがなければならなかった。
川の流れが溺死体を岸にうちあげるように、おおいかぶさるような眠気がクーリーたちをここにうちあげたのであり、ひとりとして、目をさまさなかった。
馬鹿げた、けしからぬ恰好をしたわれわれの一団が通るのを、有難いことに、そこにいるだれも、見なかったと思う。
いい忘れたが、われわれときたらスモーキングの正装で、連れの二、三人の女性は、イブニング姿だったからだ。
ここかしこで脚やむきだしの肩におぼつかなくもぶつかってしまうわれわれの足ほ、エナメルの靴をはいていたが、寝入った徒刑囚たちを起すことはなかった。
五階、六階、七階・・・・・人間が身を置くだけのすき間があれば、ひとりが横たわり、あるいはエビのように身をまるめて寝ていた。
電灯の光をよけるのに前腕で顔をおおっている者たちもいて、それはいってみれば、敗者がとどめを刺されまいとして身構えた姿だった。
 八階、九階・・・・・この奴隷の寝部屋で、汗に光も胸や硬い筋肉の腕が、暗い片隅や折りかさなった群のあちこちに浮びあがっている光景には、何か陰鬱な美しさがあった。
時には二人、三人、四人が場所をとらないように詰め合って、互い違いに寝ていることもあり、一方の顔のそばに、もう一方のはだしの足が伸びていた。
九階からは、乾燥卵のマークが際限なく繰り返されて入っている木箱が、彼らの寝場所を占領していた。
十三階には、うちひしがれて苦痛や死の体型をとっているこれらの人びとが、あい変らず寝ていた。
そして不意に、横たわる人びとの最後の一団を越えたところで地獄めぐりは終り、大きなテラスに向って開いた出口が、広やかな風通しとなっていた。
われわれはいま空のはじまるところ、上海を足下に見ながら、血のような火炎にまみれた夜の縁にいた。

shanghai1937-10-27fire.jpg

街が、〈彼らの〉街が、燃えていた。
勘定してみる。
われわれの周囲の火炎は十九カ所。
かなり近いのもあれば、ほのかな光が代る代る現れては消える星雲のように、遠いものもある。
また別のはぐっと近く、大きな水藻のような火の手が立ちのぼるなかに、家々の屋板のシルエットが浮んでいる。
頭上には、はるかに高く、風が煙の雲を斜めに立ちのぼらせたあと、その渦の方向を曲げようとしていた。
十二月になると、日本軍は通行禁止令を解除しはじめ、〈通行証〉を持ったわたしは、蘇州河北方の、戦場となった地域を訪れることができた。
わたしはまだ人の住める場所があるだろうと思っていた。
実際には、火の手がすべてをなめ尽したあとで、わたしは三時間というもの、煉瓦と炊けぼっくいを伝いながら、廃墟の砂漠を歩き回ったのだった。
奇蹟的に火が回らなかった場所がぽつんと残っていても、その中身はそっくり、略奪によってえぐり取られていた。
また別の機会にわたしは閘北にも行ったが、今度は空襲にやられた街の光景を見ることになった。
ふたたび、目の前にあるのは、かつて船上から見た、第二次大戦の最初のイメージだった。
廃墟と、そこに残る石、コソクリート金属板、舗装部分は、火の海をくぐったあと、何もかも文字通り満身創痍で、穴があき、むしばまれていた。
さらに足を延ばして街の西郊の田舎に行ってみた。
そこでさえ戦争はひどい破壊の跡を残していた。
固めた土と竹でできたあばら鼻の集まる最も小さな村でさえ、爆弾の雨を浴び、場所によっては、第一次大戦のヴェルダンの戦場のように穴だらけだった。
畑では、まだ至るところにといっていいほど横たわっている中国兵の、酸鼻をきわめた死体にぶつかった。
塹壕の跡には、にぎりしめた手がひとつ、土のなかから天を指して突き出ている。
少し離れたところには首が、まだ中国軍の青天白日旗のマークのついた鉄かぶとをかぶったまま、転がっている。
腹をすかした犬どもが追いかけ合い、生け垣沿いに人間のしかばねを争って、はげしくたたかっていた。
池のなかでは死体が腐り、たまらない臭いが立ちこめている。
そこから五十メートル離れた場所では、中国の農民たちがまた畑仕事にとりかかり、身の毛もよだつ近隣の死人たちにも一見、知らん顔で、体を折り曲げて地面を掘り返していた。
彼らは、自分の畑の端にある腐乱死体を土に埋める労さえとらなかったのだ。
幽霊をこわがっているのだろうか。
それともむしろ、自分の同胞に対する当時の中国人の、残酷な無関心からだろうか。
 その冬は-むかしからそうだったのだが-歩道にごろ寝する宿なしが多い中国人衝で、夜の間に凍死したあわれな人びとが朝になって見つかるのが、日常茶飯事になっていた。
自分の家の門口でどこかの老人や子供が死んでいるのに気づいた時、中国人はどうするか。
彼は夜の明ける前、死体をそっとひきずって、少しばかり離れた、近所のどこかの家の門口に置くのである。
こうした不運な人びとを集めて回る仕事は、毎日早朝に行われていた。
それは慈善団体・・・外国人団体の、事業だった。
ある日市外の飛行場近くに用事があった時、わたしは田舎のまんなかで、クーリーたちが、木箱の山をトラックからおろしている異様な光景を目にした。木箱は不細工なつくりだったから、ふたがはずれ、どの箱のなかにも、中国人の子供の小さな凍死体が見えた。
トラックには大きな白十字とともに、次の文字が読めた・・・「共同墓地慈善協会」。
共同墓地といっても、畑がその代用なのだ。
それもどうやら、持ち主が逃げ出したあとの、一番手近なところで済ませていた。
木箱を乱暴に、3段に積み重ねてしまうと、クーリーたちは気を取り直して、30センチほど土をかけた。
小さな箱の次は大きな箱の番であったが、釘のうちかたは前にもましていいかげんで、浅い埋めかたは似たり寄ったりだった。
その光景はおよそ葬いにはほど遠く、人間の大群に欠員が生じてもたちまち補充してしまう中国の生命の、死を上回るたくましさを反映して、またしてもここには、完全な無関心があった・・・・・・




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上海・・・金子光晴

 
 私が、中国へよく行くようになったのは、1980年半ばからである。
当時の中国は、北京や上海のような大都会でも、近代化という言葉とはまったく縁遠いものだった。国際空港もただの無機質な建物といった風であり、街のなかでは、馬の引く荷車やリキシャ、行き交う人々は人民服姿かそれに近い地味なかすれた服であった。スカートなど履いている女性は皆無であった。
夜に遊びにいこうと思っても、北京、上海でさえ、外国人が酒を飲める店は限られていた。クラブやバーは、1,2件しかなかった。そもそも、飲みに行こうにも、夜8時以降タクシーを捕まえることは不可能であった。8時前に仕事終了なのであった。

 それが今では、おどろくべき姿に変貌した!
上海、北京という国際空港は、コンピューターで管理された機能的な最新空港である。インターネットなどの設備を配備した世界トップクラスである。
上海の街はどうか?

shanghai3.jpg


地面の下は、地下鉄網。地上には、3層の高速道路。
摩天楼にアメリカ顔負けのショッピングモール。
古い建物の地区を発見と思えば、観光用の歴史地区、とここまで何の未練もなく、こんな大都会を徹底的に破壊、近代化できるものだとビックリする。

横光利一や金子光晴が、『魔都・上海』として、著書で魅力的に表現した上海を、今ではほとんど感じえることはできない。
私が行った、1980年代半ば頃から、中国は、共産主義国でありながら、個人の小資本というのを多少認めるようになってきた。
街なかでは、香港系のホテルがちらほらと見られるようになり、そのサービスは中国資本とは明らかに違ってきたが、まだ大きな変化のうねりのようなものは感じなかった。
まだ、中国人の店に入れば、最低のサービスしか受けられなかった。食べ物の運ぶのがめんどくさいらしく、添乗員自ら、調理場まで取りに行っていた。
ただ、その頃はまだ古い中国が至るところに垣間見えていた。
とくに、建物や路地などは100年前のままだったのではないだろうか。

『どくろ杯』金子光晴著・・・上海灘より(1928年昭和3年)



 あの頃(一九三〇年頃)の上海のようなミクストされた、ミクストされる事情にある港市は、これまでも、この後も、世界じゅうにあまりみあたらないことになるのではあるまいか。
この土地は、二千年前は呉楚の地で、楚の春申君の故地なので、いまだにこの土地を申とよぶ。
滬(フ)とよぶのは、その字が河なかの矢来を意味していて、揚子江の支流呉淞江(ウースンコウ)の流れ落ちる手前に栄えたのでそれをよび名にしたものであろう。
もとより中原からは取り外された僻地で、揚子江の沈澱でできたこの下湿の地が、開化的な今日の都会の姿になったのは、イギリスの植民地主義が、支那東岸に侵略の足場を求めて、この最良の投錨地をさがしあて、湊づくりをはじめて以来のことで、それから今日までまだ、百年ちょっとしか経っていない。
もうその頃からこのへんは、戦火のちまたで幾度となく瓦礫地にかえり、それ以前には、くり返し、倭寇が荒しまわっていたものであった。

Shanghai_19th_century[1]

今日でも上海は、湊喰と煉瓦と、赤瓦の屋板とでできた、横ひろがりにひろがっただけの、なんの面白味もない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれはつづいていた。
かさぶたのしたの痛さや、血や、膿でぷよぷよしている街の舗石は、石炭殻や、赤さびにまみれ、糞便やなま痰でよごれたうえを、落日で焼かれ、なが雨で叩かれ、生きていることの酷さとつらさを、いやがうえに、人の身に沁み、こころにこたえさせる。
恥多いもののゆくべきところではなさそうなものを、好んでそこにあつまってくるのは、追われもの、喰いつめもの、それでなければ、みずからを謫所(タクショ、罪を受けて流されている所)に送ろうとするもの、陽のあたるところを逃げ廻る連中などで、その魂胆は、同色のものの蔭にかくれて日に立つことを避け、じぶんの汚濁を忘れようというところにあるらしい。
私たち、しょびたれたコキュとその妻とが、この地を最初の逃場所に撰んだのも、理由のないことではないのである。殊更その夫には、おのれのあわれさとかなしさを、それほど意識しないですむためにも、負けずに凄まじい悖徳者(ハイトクシャ、道徳に背くもの)や、無頼の同胞のあつまるなかにまぎれ込んで、顔に泥んこを塗ってくらすことは、屈強このうえもない生きかたであった。




・・・・・・・・船を下りて三人は黄鞄車(ワンポツオ)をつらねて走り出した。くすんだ曇天の街の、煙硝とも、なまぐささとも識別できない、非常に強烈だが一種偏って異様な、頑強で人の個性まで変えてしまいそうな、上海の生活のにおいを、私たちの内側まではっきり染みついているなつかしさで一つ一つよびさまさせる。

ricksha.jpg

上海の苦カたちは、寧波(ニンポウ)あたりから出てきた出稼ぎの細民で、なかには、倒産しかけた一家を助けるため、資金稼ぎに出てきている商人くずれなどもいる。
師走前には、梶棒をすてて、裸のからだに泥を塗って、強盗を働くものもあり、青幇党(チンパンタン)の杯をもらって、ばくちやその他の悪稼ぎに足を突込むものもある。
客をのせればゆく先もきかず、暗雲に走りだす。文字通り彼らは、じぶんのいのちを削って生きる。厳寒でも裸足で、腫物のつぶれたきたない背中を、雨に洗わせて走る。
客は、その河童あたまを靴の先で蹴りながら、ゆく方向を教える。
人力車は、もとは日本からわたったものであるが、日本の車夫のようなきれいごとでは立ちゆかぬほど、たった二十枚の銅貨を稼ぐことがむずかしいのだ。
苦カばかりあいてのめし屋がどこにもあり、荒っぽいが栄養はたっぷりの牛の臓腑のぐつぐつ煮たものをたべさせる。
二十枚のドンベで、どうやら飢をしのぐに足りる。
ドンべは四百何十枚でなければ、一元にならない。
私のいたころの元の相場は、日本の円とパアで通じた。
黄鞄車苦カ(ワンポツオクーリー)には、金への執着と、食欲しかない。
性欲は、贅沢の沙汰だ。
上海の旧城の外には、苦カあいてのいかがわしいのぞきからくりがあり、それをのぞきながら手浬するのが、最上の処理の方法だったりしたが、蒋介石の治下になってからは、阿片追放、グロテスクな見世物、人間の皮膚をすこしずつ剥いでそのあとに動物の毛皮を植えつけた熊男や、生れるとすぐ嬰児を箱に入れ、十年、十五年育てた小男の背に、つくりものの羽をつけた「蝙蝠」(こうもり)の見世物なども、禁制になって影を消した。
蝙蝠は、蝙が福のあて字で、目出度いと言うので、商人に縁起をかつがれ、大きにはやった見世物であった。
むろん、卑猥な見世物・磨鏡(モウチン、女同士の性交をみせるもの)や、戸の節穴からみせる性交の場面なども禁じられてしまった。
たしかに苦カたちは、欲望の世界で、欲望を抑圧された危険なかたまりで、その発火を、自然発火にしろ、放火にしろ、おそるるあまり、周囲の人たちは、彼らがじぶんたちと同等の人間であることを意識して不遜な観念を抱くようなことのないように、人間以下のものであるらしく、ぞんざいに、冷酷に、非道にあつかって、そうあってふしぎはないものと本人が進んでおもいこむようにしむけた。
そういう変質的なまであくどいことに就いては、中国人は天才であった。

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横光利一の『上海』

 
 横光利一は、1928年(昭和3年)に、冒険的小説『上海』を発表した。
1925年、上海で学生や労働者を中心に起きた反帝国運動、 五・三〇事件をモチーフに、海外でうごめく雑多な日本人の生態をその中で教えてくれた。

精緻な表現、すばらしい語彙力で、当時の上海をまるでドキュメンタリーでも見ているように、感動させてくれる。それは、今の作家ではなかなかお目にかかれない、新鮮さがあった。

その横光利一の友人でもある詩人・金子光晴が、横光と上海で出会ったときのことを『どくろ杯』の中で書いている。
それを読むと、『上海』を書いた横光利一のイメージとかなり違うことに驚かされる。
『上海』の主役は、とても、ニヒルな2枚目のような感じでいたのだが・・・・・・

・・・・横光利一が来て、旧交をあたためたことぐらいが出来事だった。横光はいなか者丸出しで、ゼスフィールド公園のロ-ンをあるきながら「高田の馬場とおんなじや」と言ったり、永安公司の支耶浴場で、国木田(国木田独歩の息子・虎雄)と三人並んで、靴の紐から、帽子、外套、上着、ズボン、シャツ、猿股と、一手をうごかさず脱がせてもらって裸にされながら、「わからんなあ」と首をひねって感心したり、「ブルー・バード」のホールで、ダンサーの静公(しいこう)に踊ってもらいながら、「生れてはじめてや」と、おっかなびっくり庇っぴり腰にしていたのが、愛嬌者であった。



上記の金子光晴は、1927年(昭和2年)3月のことである。
もしかしたら、横光は、1925年の上海の五・三〇事件を実際に自分の目ではみてないのかもしれない。類稀な想像力で、小説『上海』をかいたのかもしれない。
その後、横光は、パリをモチーフにした『旅愁』を発表する。
フランス文学の専門家によると、この『旅愁』におけるパリの風景はけっこう間違っているらしい。こちらも、類稀な想像力で、書き上げたのかもしれない。






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