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パリ・・・金子光晴

 パリ

金子光晴著『ねむれ巴里』より

1929年、世界恐慌の直後、詩人・金子光晴が漂泊したパリの印象である。

 


この街は、ふしぎな街で、くらいモスコオから、霧のエコスたち(スコットランド人)の住む国から、アビシニアンから、テヘランから、あつまってくる若者たちを囚虜(とりこ)にし、その若者たちの老年になる時まで、おもいでで心をうずかせつづけるながい歴史をもっている、すこしおもいがあがった、すこし蓮っ葉な、でも、はなやかでいい香いのする薔薇の肌の、いつも小声で鼻唄をうたっている、かあいいおしゃまな町娘とくらしているような、それで、月日もうかうかと、浮足立ってすぎてしまいそうなところである。
・・・・・・パリの人たちは、いつになっても、コーヒーで黒いうんこをしながら、すこし汚れのういた大きな鉢のなかの金魚のようにひらひら生きているふしぎな生き物である。
長夜の夢からまださめきらないのだ。
第一あのP音の多い、人を茶にしたとぼけたフランス語を使いながら、あけくれ女の尻から眼をはなさない男たちや、男の眼でくすぐられている自覚なしではいられない女たちが、ふわりふわりとただよっているこのフランスの都は、立止って考えるといらいらする町だ。
頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算ずくめなのだ。
リベルテも、エガリテも、みんなくわせもので、日々に、月々に、世界のおのぼりさんをあつめる新しい手品に捺す古いスタンプのようなものだ。
騙されているのは、フランス人じじんもおなしことで、騙している張本は、トゥル・エッフェルや、シャンゼリゼや、サクレ・キュールや、セーヌ河で、そんな二束三文な玩具を、観光客は、目から心にしまって、じぶんもいっしょの世界に生きている一人だったと安心するのである。



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日本人って・・・金子光晴より

詩人・金子光晴は、第二次世界大戦の前に、2度ヨーロッパを旅した。
それ以外に、アジアも旅した。

そして、戦争に反対した。
日本が負けることはわかっていた。
反戦詩を書き、文学者が戦争に協力することに反対した。
小林秀雄は、戦争から逃げ、久米正雄は、戦争に協力した。
しかし、金子は、久米さんがいたおかげで、文学者がそんなに酷い目にあわずにすんだ、
と久米が文学者と政府との間をうまく立ち回ってくれたことに感謝している。


日本人はなぜ戦争したのか?
金子は考え、日本という島国に江戸時代から息づく日本人の偏狭な自意識に対して疑問を呈する。

それは、戦後60年以上たった今でも、息づいているのではないだろうか。
外国に出た日本人は、日本大使と大使夫人を家長として、肩を寄せ合って、今でも、家族(コミュニティ)を形成しているのである。



(『絶望の精神史』金子光晴著より)

・・・・・ながい鎖国のための、外づらの悪さから、外国人と対等に解け合うことができず、日本から離れれば離れるほど、日本人どうしの結びつきが強くなり、距離に比例して、心は逆に、日本へ近づくのである。
だから、日本人は外国にいるときほど、純粋に日本人であることはなく、そのときほど、あのみじめな島国をいとおしみ、愛しているときはないのである。
 僕は、このはじめてのヨーロッパの船旅のなかで、大正の文化人とは違ったむかしのままの人情風俗に出会って、まだそっくり、明治の日本人と、その考えが生きているのを知って、おもいを新たにした。
彼らは、暇さえあれば議論する。日本総領事館が外国官憲に対して弱腰なことや、東洋からイギリス、オランダをたたき出さねばならないというのは、まだいいとして、「そのために日本は大戦争を、近い将来に用意している。それはたしかな筋からきいたのだ」と一人が言えば、「華僑の排日は、もう一度戦争で手ひどい目にあわさなければ、いつまでたってもいやまない。まずチャンコロをやっつけるのが先だ」と一人は極論する。
 どれも一皮むいてみれば、自分の現実の立場を擁護してほしいということに帰結するのだが、外交や、民族の融和ではなくて、国の暴力一つをたよっているのである。
その原因は、彼らをそそのかし、軍事力によって国の発展を約束した明治の軍国主義を、世間知らずの正直な日本国民が、まるのみにしたことによるのだ。

 突っ立った岩や、ねそべった岩が、まわりの海を拒絶し、はねつけている。海は見わたすかぎり凪ぎわたっているが、日本から外へ出ようとするものの意志をはばみ、また、破壊や混乱や、過剰な刺激を外から運んでくる、外国の船舶の近寄るのを警戒していた。
 そのために、長い年月日本人は、海のかなたに、国々のあることを忘れていた。忘れていないまでも、無関心でいた。拓本や薬、文房具などを日本へ運ぶ朝鮮や、中国をのぞいたら、ほかの土地は蛮族の住家だとおもいこまされていた。
「民をして知らしむべからず」の政策の、それも一つのあらわれである。
江戸時代は、この政策で、三百年の平安の夢を見たが、日本人の性格はそのためゆがめられた。
「見ざる。聞かざる。言わざる」の消極的な小天地のなかで、よそへは通用しない、横柄で小心、悟りすましているようで勘定高い、ちぐはぐな性格ができあがった。
性格ばかりでなく、すわりつづけてばかりいるので、胴長で、足のまがった、奇型な体質までつくりあげた。
 今日の日本人のなかにも、まだ残っている、あきらめの早い、あなたまかせの性質や、「長いものには巻かれろ」という考えからくる、看板の塗替えの早さ、さらには、節操を口にしながら、実利的で、口と心のうらはらなところなどは、江戸から東京への変革のあいだを生き抜けてきた人びとの、絶望の根深さから体得した知恵の深さと言っていいものだろうか。
 日本人として生まれてきたことは、はたして、祝福してよいだろうか。
 悲運なことなのだとうか。
その答えは、だれにもできないことであろう。

しかし、僕が、防波堤や、虫食った岩礁の上に立って、黒潮の渦巻くのを眺めながら、「とうてい、逃げられない」と感じたことは、日本がむかしのまま鎖国状態とあまり変わりがないことへの絶望とみて、まちがいはないだろう。
 警備がどれほど厳重であっても、たとえば、東ドイツと西ドイツのような石壁があっても、それを越えられるという可能性さえあれば、僕らは、自分のおもうとおりを自分に命令する勇気がもてる。
国境が地面で続いていたら、その先が砂漠であっても、よろめき出た歩数だけの自由を自分のものにすることができるのに。




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金子光晴のパリから

エジプトのツアーが、バンバンと出ている。
HISが、今年の正月から、格安・6日間のツアーを出している。
8日間ぐらいのツアーでも、お客も添乗員も腹をこわすのに、6日間というのもすさまじい強行ツアーだ。これから、猛暑の夏にかけてもバンバンと出るらしい。

エジプトは、観光地の老舗である。元祖・旅行会社のトーマスクックが、19世紀最初に組んだ世界ツアーも確かエジプトだった。
それだけの遺産がエジプトにはあるということだろう。
だから、世界中の誰もが一度は訪れてみたいと思う。
私もそう思った。
ギザのクフ王のピラミッド、スフィンクス、ルクソール、王家の谷、アブシンベル神殿、ナイル川、オベリスクなどなど・・・・・・・歴史も書物も写真も裏切らない遺跡だ!(こういう遺跡は実際少ない。行ってみてガックリすることが多い)

しかし、なんだか、居心地が悪い。
ここの国民の目つき、態度に違和感を感じる。
人を見定めるような目つき・・・・変にゴマをするような態度・・・・
親切なのかなあ・・と思うと、下町などで、とっても雑な対応を受ける。
つまり、表裏があり、とっても疲れてしまうようだ。
また、チップ、チップとどこでもうるさいし、西欧式サービスの施設に行けば、係員の暗黙の微笑みからチップのプレッシャーを受ける。

はっきり言えば、旅行しずらい。
そういうことを楽しめるようになるまで、かなり時間を要する。
10日前後のツアーでは、まずそこまで深く理解しあうことは無理だろう。

世界には、このエジプトと似たような国がいくつかある。
例えば、インド、ケニア、ミャンマーなど。

同じアフリカでも、モロッコやチュニジアは、エジプトほどの疲れを感じない。
物売りなどのしつこさを除けば、人々から受けるプレッシャーはそれほどでもない。
結構、現地の人々の優しさに都会でも下町でも自然にふれることができる。


上記のような違いが、なぜ生じるのかとずっと疑問に思っていた。
そして、あることに気づいた。
それは、エジプト、インド、ケニア、ミャンマーなどすべてが、イギリスの植民地であったということである。
つまり、これらの国の宗主国がイギリスであった。

それでは、なぜ、イギリスが植民地にすると、そのような印象の国ができあがってしまうのだろうか?
・・・正直、よく、わからないが、下記の金子光晴の一文に少しヒントを見出した。




詩人・金子光晴は、1929年船でパリに渡った。先に妻がパリに来ていたが、元々、ほとんどお金を持っていなかった2人は、1929年に起きた世界恐慌によって、さらにどん底の生活を強いられることとなった。後日、光晴は「男娼以外、なんでもやった」と言っているように、堕落のなかから人間世界を見続けていた。
 下記は、そんな光晴が、パリの近郊リオンまで、借金のため友人を訪ねてきたくだりである。


(『ねむれ巴里』金子光晴著より )
 リオンの駅についたとき、まだ夜なかであった。
・・・・・・汽車から下りると、あたりのくらさは、ヨーロッパに着いてからみたことがないほどである。
細い道の両側には、ずっと露天の店が並んで熱いコーヒーを売っていた。
これだけは全く助かったといった気持ちである。
それに、パリのような都会の中心でも、いなかでも、コーヒーの味とパンの味が変わらないのもフランスである。 
 駅の外で夜なかでも濃いコーヒーが待っててくれるという仕組みは、とかく旅に出るとうち恋しい彼らの願望がつくり出したもので、周りの条件が一応、我慢できるようになると、彼らはまた、どんな辺土にでも、そのまま居ついて、どこの生活にも融け込んでしまうという一面もあった。
 都会といなかとの生活程度の段落など物のかずではなく、口腹の欲と、現地人でもいい、セックスが満足させられるあてがあれば、世界のはてのどこにでも生きてゆくことができる人間であった。
それにくらべてイギリスの植民地に出張した人たちは、たいてい独身で、三年でも五年でも、八年でも傲岸(ごうがん)にかまえて、現地人を尻目で眺め、ウイスキーで性欲などをおさえつけて支配者の姿勢をくずさず生きてゆくことを真骨頂としていた。
イギリス人のあいだではゴーギャンのような人間はめったに居ない。

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歩くこと=金子光晴のジャラン・ジャラン


 詩人・金子光晴は、よく歩いたらしい。
確かに、彼の旅行記を読むと、町じゅうを歩き回っている。
上海では、内山書店の内山完造氏から、「あんたみたいによく歩く人みたことない」といわれたらしい。
パリもほとんど歩いて回っていた。

 文豪・島崎藤村は、なかなか外国になじめなかったようだ。

 金子光晴が『ねむれ巴里』に書いた記述は、たぶん、藤村が滞在したときから現地に住む日本人に聞いた話ではないだろうか。 



『ねむれ巴里』金子光晴著より

・・・日々のくらしの計画は、たえずぐらついていた。
上海の町のすみずみまはてばてまで歩き廻って、内山完造氏から、「あんたみたいによく歩く人みたことない」と呆れられたが、パリでもまたおなじ繰り返しで、誰もゆかないような場末の隅々まで、よくもとおもうほど丹念にあるきまわった。
パリに着いてからもう、半歳になる。南洋の華僑から買った安い靴はおおかた底がすり切れて、あげくの果、底のゴムがめくりあがり、気をつけないとなにかにひっかけて前のめりになったりするので、とりわけ、地下鉄の階段を下りるときが危険であった。

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『エトランゼエ』島崎藤村著より

・・・・・そこへ行くと、町で行き逢う男や女の視線を避けようとするだけでも、私の足は下宿の方へ急いだ。

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『ねむれ巴里』金子光晴著より

・・・・島崎藤村も、旧人でこの市にはなじめないで、窗(窓)から町を眺めただけで、見物もろくにしないで帰りの船を待って帰ってきてしまったというし、・・・・





私は、旅人にとって、「歩くこと」はとても大事だと思う。
歩かないと見えてこないものが多い。

団体ツアーでは、車高の高い大型バス(ハイデッカー)に乗り、ホテルから、移動を繰り返す。
バスの中から見える行きかう人々や建物や自然をみて、旅に出た悦に浸る。
しかも、車高の高いバスのおかげで、かなり高い位置から遠くまで見ることが可能だ。
エアーコンディションで空調も快適だ。

busSilver[1]

しかし、この旅行者が見ている空間と、経過した時間は、日本の自宅で旅チャンネルを見ているのとほとんど相違ない。
フィルターのかかった窓からの風景を、あたかも現実に見ている実像と誤解しているだけである。
確かに、団体ツアーでは、こういう移動が当然であり、個人の自由はほとんど効かない。
ただ、もし、旅チャンネルを見ているのと違う、本当の旅人になりたければ、バスから眺めた風景の中で、自分はその場に立ってみたい!傍で見たい!という感情を抱くことを忘れてはいけない。
旅チャンネルでは、「行ってみたいなあ・・」と思えるが、実際に行くことはなかなか難しい。
しかし、バスの中からなら、ちょっとした合間をみつけて、現地と触れ合うことは可能である。

バスでも電車でもとても立派になった。
そのおかげで、窓ガラスが開閉できなくなった。
これでは、視覚以外、外の景色と交流するものは何もない。
遮光用のスモークが付いていることもあるので、視覚さえもまがい物の可能性が出てくる。
ローカルバス、ローカル電車がいい。
窓ガラスは開閉し、外の風景も温度も湿度も臭いもわかる。


もう一つ、車高の高いのも問題だ。
観光の視点は、低ければ低いほどいい。
いいというのは、有意義という意味である。
バスより、タクシーのほうがよくて、タクシーより自転車のほうがよくて、自転車より徒歩のほうがいい。
白人よりアジア人のほうがよくて、男より女のほうがよくて、大人より子供のほうがいい。
2階のテラスより1階のカフェのほうがよくて、立っている人より、座っている人のほうがよくて、座っているよりしゃがんでいるほうがいい。
政治家や社長よりノンキャリや平社員のほうがよくて、それより肩書きのない者がもっといい。
金持ちより貧乏くさいほうがよくて、中年より若者のほうがいい。
ビジネスクラスよりエコノミークラスがよくて、1等車両より3等車両のほうがいい。


ビジネスクラスに乗ったら、エコノミークラスは全く見えない。意識することさえない。
しかし、エコノミークラスに乗れば、ビジネスクラスはよく見えるのである。

エアコン特等車両に乗れば、2等車両の乗客は全く視線に入らない。
しかし、2等車両の乗客からは、涼しいところで快適にくつろいでいるエアコン特等車両の乗客がよく見えるのである。

日本人観光客を10名ほど乗せた定員50のスーパーハイデッカー・バスが、炎天下の東南アジアの街を走る。
日本人客の耳目には、街中をゆっくりと行きかう人々、多量の車やバスに、微かに聞こえるクラックション、バス停でかったるそうにバスを待つ人々、やしの木の下で寝ている者などが視界を通り過ぎていっているはずである。
その際に、見えてくるものに強い情動は何もないであろう。

一方、日本人観光客を乗せたこのバスを見ている地元の人々にとっては、強い情動がある。
たとえば、窓が開け放され、ギーギーと黒い煙を吐いている路線バスの中で、オシクラマンジュウ状態でいる乗客たちの目には、この日本人の乗ったすばらしきバスが、やるせない嫉妬とともに桃源郷のように映し出されていることだろう。

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金子光晴の「海」?

島崎藤村は、コロンボ出航後、夜のインド洋を旅行記『海へ』に書き表した。
それは、まるで、『海』を、これから自分が訪れるヨーロッパ、かつ、その後の自分の人生にたとえているようにも見える。




『海へ』島崎藤村著

日の光はアフリカの海に満ちていた。
人を避けて私は海を見に行った。
一切を忘れさせるものは海だ。
躍れ。躍れ。海よ、踊れ。
舵に近く白い大きな花輪を見るようなのは、われわれの船から起す波の泡であった。
たちまち、その泡が近い波の上へ広がって行って、星のように散り乱れて、やがて痕跡(あとかた)も無く消えて行った。
私は遠く青く光る海のかなたに、無数の魚の群かとも思われる波の動揺をも認めた。
条理もなく、筋道もない海。
先蹤(せんしょう)もなく、標柱もない海。
豊富で、しかも捉えることの出来ないような海。
何処を出発駅とも、何処を結末とも言い難いような海。
私の眼に映るものは唯、日の光りであった。
波の背に反射する影であった。
藍色の波の上に浮き揚って、やがて消えて行く泡であった。
波と波と相撃って時々揚がる水煙であった。
光と、熱と、波とは殆んど一つに溶け合って、私は自分の身体までその中へ吸われて行く思いをした。
大船の心安さ。
私は波打際の砂の上に身を置くような海から離れた心持をもって、しかも岸から窺うことの出来ない海の懐をまのあたりに近く見て行った。
巻きつつある。
開きつつある。
湧きつつある。
起こりつつある。
奔りつつある。
放ちつつある。
延びつつある。
狂ひつつある。
乱れつつある。
競ひつつある。
溢れつつある。
醸しつつある。
流れつつある。
止りつつある。
転びつつある。
陥りつつある。
渦巻きつつある。
波は波の中に滑り入りつつある。
揺れつつある。
震へつつある。
触れつつある。
撃ち合いつつある。
混り合いつつある。
逆立ちつつある。
連なりつつある。
績きつつある。
われとわがみをほしいままにしつつある。
長い廊下のような甲板から眺めると、すこし斜めに成った欄(てすり)の線があたかも遠い水平線と擦れ擦れにあって、あるいは水平線の方が高くなったり、あるいは欄の線の方が高くなったりするように見えた。
どうかすると、青い深い海はその板の間まで這上って来るようにも見えたーーー波の動揺に身を任せていた私の直ぐ足許まで。




島崎藤村と同じ航路を、約15年後、詩人・金子光晴がゆく。
コロンボ出航後を、『ねむれ巴里』より抜粋する。
それは、彼の性格をよくあらわしている。
長い船旅のはずだが、「海」についてほとんど記載していない。


・・・・・・・・・・・・・・・
この船は日本船で、乗客、スタッフも日本人が多かった。
光晴は、当初、当然のごとく、8人用の日本人部屋にいた。暇にまかせて日本人たちが猥談ばかりするので、嫌気がさして、同じく8人部屋の中国人留学生の部屋に移っていったのである。カップル2組らしきこの中国人留学生は、そこに異物のように現れた光晴にびっくりし、嫌悪感を抱いたようであるが、しだいに、仲良しになった。




『ねむれ巴里』金子光晴著より

・・・・・・・・・・・・・船にかえると、僕たちを待っていたように船は出帆した。
海の牧草のみどりを船は、十八ノットの速力で進んだ。
波がながい舌で、船側の鉄板をなめて過ぎる。
朝はとび魚、夕は、海豚の群が船を追う。
船室にかえると、中国人留学生たちが上陸して、郷土とゆかりの親戚、友人の家でたらふくのみ食いして戻ってきた吐虐に似た臭気で空気がよごれたパレットのように、ごてごてに塗りたくられていた。
名状できない人間の濃い臭いのなかに、一すじ酷酸のような強いにおいがまじって鼻腔を刺戟すると立てつづけに大きなくさめが出た。
植物園で案内人が教えたあの莢の臭気であった。
謝女史がフィアンセと一つの框のなかに、からだをつめこんで眠っていた。
陳氏と譚嬢は、相変わらずはなればなれで、どちらもシャツ一枚でねていた。
彼女を追いかけて廻りながら、遂に、途中で眠りこんでしまったものらしい。
譚嬢の上着がたくしあがって、みぞおちの辺が裸になっていた。
全体の肌のいろがずずぐろかった。五胡十六国のむかしから、むちゃくちゃに混血していまの支那人ができたのにちがいないが、譚嬢は、漢民族や、鮮卑、匈奴でもなく、荊蛮の黒土のなかから抜け出した泥濘の子にちがいない、と僕は、わかりもしないことを空想していた。
日本ならば、坂東うまれの糞土から出てきた女に似ているが、琉球の娘や、アイヌの子から、表情のきついところを抜いたようでもあった。
譚嬢のむきだしの腹は、灼けた焙烙のような火いろで透いていた。
その腹のふくらみは、意外にやさしく、犬の子でも入っているのにふさわしいかった。
陳君は、滑稽にもあわれなしまりない表情をして眠りこけていた。
譚嬢はともかく、神経質な謝女史がみたら、どんなに蔑んだ眼をすることだろうーーーだが、それは、日本人のみた感想で、中国の同郷のよしみはそんなものでなく、四人の郷党がこころを一つにして出てきた彼らのあいだの感情には、我々薄情な日本人には、到底想像できない、木組みの喰いあわせのように、押しも、引くもならないものがあるようにもみえる。
汗と脂でくろずんだ男女の裸出部をながめているうちに、極限状態にあった僕は、その泥絵の空間に、つづけさまに射出した。
射出されたものは、どこへいったかわからない。
三千由旬もたかく飛んで、兜率天(とそつてん)まであがっていったかもしれない。
もっと大きな虚無が口をひらいてのみこんでしまったようでもある。
案外、部屋のどこかのペンキいちめんの天井の鉄板の締め釘にぶつかって、そこからおもく垂れさがって、ベッドから上半身をのりだして正体もなく涎(よだれ)をながして眠っている謝女史の白いのどから胸元のあたりにいまもしたたり落ちようとしているかもしれない。
 なににせよ、四人の留学生は、二十代だし、僕だって、三十歳になったばかりのことである。
人生には、どんなに話の合わない、困ってもどうしようもない、おかしなことが、踵をついで起ったとしても、しかたがないというものだ。


・・・・・・・・・・・ 深夜、寝しずまった人たちのあいだで一人眼をさました僕は、しびれたように頭を持ちあげ、掛梯子をつたって下におりると、ふらふらしながら船室に立った。
からだが伸びちぢみするひどい動揺であった。
僕の寝ている下の藁布団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。
船に馴れて、船酔いに苦しんでいるものはなかった。
僕は、からだをかがみこむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。
じっとりとからだが汗ばんでいた。
腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。
その手を引きぬいて、指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変わらない、強い糞臭がした。
同糞同臭だとおもうと、「お手々つなげば、世界は一つ」というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされて、可笑しかった。

(読みやすいように段落をつけていますのでご容赦ください)



私が、旅人として最も敬愛する詩人・金子光晴は、島崎藤村より約15年遅れて1929年、船でヨーロッパに渡る(2回目)。
たった15年の違いだが、この時期の15年はかなりのものではなかったのではないだろうか。
藤村がヨーロッパに滞在した大正初期は、まだ、日本は明治人気質を残した発展途上の国であった。第一次世界大戦(1914~1918年)も英国やフランスという連合国側についていた。
金子光晴が洋行した1929年(昭和4年)は、大正デモクラシーという平和ボケした浮かれた社会が関東大震災(1923年)と世界恐慌(1929年)によって一瞬にして下降線へ向った時代である。対外的にも欧米に対抗すべくアジアに侵略的覇権の触手を伸ばし始めた時期でもあり、世界中で対日感情が悪化していくのである。(1928年張作霖爆殺事件、1931年満州事変、1932年上海事変へと)

藤村と光晴は、年齢こそ違うが同時代を生きている。しかし、ほとんど接触したことがないのではないだろうか。
金子光晴は全く売れない詩人であるのに比べて、島崎藤村は文豪である。
また、金子にとって、藤村の自然主義など、鼻持ちならなかったのではないだろうか。
きっと、性格は水と油ぐらい違うだろう。それは、2人の旅行記に現れている気がする。

光晴は、いつも極限の状態である。
電車が来ているのに、プラットホームのギリギリ端を歩いているのだ。
それに比べて、藤村は、黄色い線の内側を常に歩いているような感じだ。


唯一の接点は、光晴がパリで生きるために、詐欺まがいのことをした相手が、たまたま藤村の留学中の息子・鶏二君だったことぐらいか・・・


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