Home *  * All archives

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
tb: -- |  cm: --
go page top

ラングストン・ヒューズのジェノア 2

 
 ラングストン・ヒューズのジェノア その1のつづき

*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より




(1833-1895)Genova Piazza_Caricament

 その年の秋、ジェノアの波止場を徘徊しているものたちで、英語を話すのは、わたしたち六人くらいだった。
アメリカの白人がふたりにわたし、スコットランド人がひとり、リミィとかいう名前の男、それにすごく背が高く骨が太く色が黒い巨人のような西インドの黒人だった。
この西インド人は、職業拳闘選手のように見せかけ、そしてじぶんよりはずっと小柄で弱いイタリアのボクサーたちに、群衆がイタリアの勇猛さにどよめくなかで、ノックアウトされてやることで、かなりの金をかせいだ。
おそらく、この黒人の男は、いまごろはもう相当の金持になっていて、きっとエチオピア人のように見せかけながら、相変わらずノック.アウトされていることだろう。
 残りのわたしたちはというと、ただの波止場の浮浪人いがいの何ものかのように見せかけることは、あまりうまくできなかった。
しかし、テキサス州出身のアメリカ人がいたが、この男は波止場で浮浪生活を送るこつにかけては、すばらしく鮮やかな手ぎわをみせた。
イギリス人であろうと、アメリカ人であろうと、観光客たちの一行が近づくと、かれは海岸通りの公園のべンチにぐったりと腰かけていて、まるでこの世にじぶんほど痛ましい人間はいないといったような様子をするのだった。
かれの目はうつむき、かれの口はたるむのだった。
だが、かれは、観光客たちが立ち止って、眼下にひろがるジェノア港のパノラマを見下ろしながらがやがや言っているその話し声にだけは、耳を鈍くそば立てているのだった。かれらがまた先へ進んでいくと、ケニィという名前だったそのテキサス人は、立ち上がり、息せき切ってかれらを追いかけ、こういうふうに声をかけるのだった。
「ヴァーモント州からいらっしゃったんじゃないですか?」
あるいは、キャンザス州からでは? ウェイルズからでは? とか、その他どこであろうとかれらの話し声からそれとわかるようなところから来たのではないですか、と。
そして、しばしばかれは、ぴったりと正確に言い当てるのだった。
かれは、すぐれた俳優であるうえに、いろんな地方の語調にかけては不思議な才能を備えていた。
 もしもかれらが「そうですよ」と答えれば、ケニィはこう言うのだった。
「わたしもなんです。わたしはニュー・イングランドの出身です。このざまを見てやってください、同郷のかたがた! こんな遠いイタリアの国で無一文になって、故郷に帰る船にも乗れないヴァーモント州出身のこの男を。」
 ときには観光客たちは、かれに、わたしたちみんなが一週間は暮らせるほどの金をめぐんでくれるのだった。

genova(1)[1]

 わたしたちの仲間のひとりのスコットランド人の若者も、そのやりかたにかけては、このケニィに劣らぬほど巧妙であったが、でもかれほどではなかった。
時には、怪しいぞ、と思われたこともあっただろう。
もしも雨が降っていれば、かれは外套を脱いで、それをわたしか誰かほかのものに持たせるのだった。
それからかれは、雨宿りの場所をさがして急いでいる観光客たちの一行に近づいていって、冬がやってくる憂鬱な国の白人という口実で、身に弛みる寒い北西風から身を護るために、どうか何か古着を買えるだけのめぐみを、と乞うのだった。
 もしも、雨ではなく陽のよく照る日であれば、観光客たちが近づくと、かれは急いで穿いている靴をぬいで、地面で風に吹きまくられている新聞紙の下にか、それともどこかの木のうしろに、それをかくすのだった。
それからかれは、公園のベンチで眠ってるあいだに、何者かに穿いていた靴を盗みとられ、それで今じゃイタリア人というイタリア人からあざ笑われているんですよ、と言うのだった。
すると、きっとイギリス人かアメリカ人かが・・・毛並みのいいひとびとだった・・・新しく靴を買うようにと援助してくれるのだった。
かれに近づかれた観光客たちの一行は、たいてい援助の手を差しのべたが、場合によっては半クラウンかあるいは一ドル紙幣ほども恵んでくれるのだった。
 あからさまに卑屈に物乞いをするということは、ケニィにとってもそのスコットランド人にとっても、沽券にかかわることだった。
かれらは、いつも同情をひくために芝居をしてみせた。
そしてわたしの知るかぎりでは、盗みをやろうとするものは、わたしたちの仲間のうちには、ただのひとりもいなかった。
                                                                                                                 
 イタリアの警察は、拘留中、ひとの感情にたいしてきわめて思いやりがないと言われていた。
 波止場の浮浪人たちのなかには、小太りの美しい食料品店の細君とか、波止場のバーの女給とかに言い寄るものたちがいた。
あるアメリカ人の若者は、娼婦と夫婦暮らしをしていた。
それというのも、じぶんの乗っていた船に思いがけぬうちに出ていかれてしまい、そのためその娼婦のベッドに置き去りにされた夜、かれはその女に給料を使い果たしてしまったからだった。
それで今では、そのときのお返しに、女のほうがその若者に寝食の場所をあたえていたというわけだった。

italia.jpg

 種々雑多で得体の知れない人間たちから成りたつグループだったわたしたち六人は、日がな一日、波止場を連れ立ってうろつき回った。
そして、運よくありつけたものは、何でも、わたしたちはみんなで分けあった。
しかし、日没のころになると、だれもかれも、みんな散りぢりになった。
仲間のなかには、いつも乗組員たちの食事を当てこんで、港に碇泊中の船に乗りにいくものがいた。
巨漢の黒人は、よくイタリア人の経営するどこかの喫茶店とか、農民たちの宿舎とかを探し出したものだが、そういう場所では、しばしばかれを眺めたり、かれのごしゃごしゃもつれた宴の毛にさわってみたりするだけで、それまで黒人なるものにお目にかかったことのない農民が、食事を振舞ってくれるのだった。

 わたしは、たいてい肉汁をかけたスパゲティとか、バターをまぶしたスパゲティとか、海産食物製のソースをかけたスパゲティとか、チーズをかけたスパゲティとか、トマト・ソースをかけたスパゲティとかを、あるいはその他イタリア人の出すいろんなつくりかたのスパゲティのどれかを、また場合によってはただのスパゲティだけを、海に臨んでいる小さなレストランで - そこでは、湯気が立つほど熱くてパスタがたっぷり盛られている一皿きりの料理だと、とても安かった- ロールパン一個と赤ぶどう酒一本をその上につけ加えて、食べた。
それからわたしは、じぶんの簡易宿泊所に帰って、寝るのだった。

 ところがある夜、わたしは、肉を一切れ食べてみたくて我慢ができなかった。
たった一切れでいいから、スパゲティみたいなものでない、上等の部厚い堅い肉が欲しくてたまらなかった。
もう何週間も前にべニスを発ってきていらいというもの、わたしは一切れの肉も口に入れてはいなかったのだ。(ああいう美術博物館が、なんと遠くなってしまったことか。)
 そこでわたしは、そのレストランのメニューにのっている肉の目録を見おろしたが、そのどれも読めなかった。
わたしには、それらのイタリア語がどういう意味なのか、わからなかった。
だが、それらが肉であることはわかったので、「三リラ」と値段のついているものを指で指し示して、それを持ってきてくれるよう、給仕のほうにうなずいてみせた。
 たのむ、はやくやってくれ! 肉だ! とうとう、肉にありつけたぞ! 口から、つばきが出た。
いよいよそれが運ばれてくるとき、わたしは、遠くからその匂いをかぐことができた。
レバーだった。
そして、熟した果実みたいに赤くふっくらしていた。
イタリアでは、小さなレストランは冷蔵庫を置いていない。
おまけに、イタリア人たちは、やや匂いのある古くなった肉を食べるのに慣れているようだ。
いずれにせよ、出されたそのレバーは、古くなっていた。
ひどく古いやつだった。
しかし、わたしは飢えていたし、それに、何か別のものと取り替えてもらうよう頼むとか、払ってしまった金を戻してもらうとか、あるいは大騒ぎをやらかすとかといったことをしようにも、どうやってそれをやればよいのかわからなかったし、また夕食を食べないですますわけにもゆかなければ、三リラの金をむざむざ失うわけにもゆかなかったので、そのレバーを、うまく口にもってゆけずにころび落ちてしまう、どんなにわずかな切れはしもあまさずに食べ、赤ぶどう酒で咽喉に流し込んだ。
そして、簡易宿泊所のベッドで眠った。

genova[4]

 その日の夜、ジェノアに地震があった。町中がぶるぶる震え、揺れ動き、だれもかれもが通りに飛びだした。
アルベルゴ・ポプラーレは大騒ぎだった。
大急ぎで服を身につけようとする男たちの叫び声が、わたしを目覚めさせた。
わたしは、建物が震動しているのを感じた。
だが、わたしは目が覚めたものの気分が悪かった!
そして、建物が揺れれば揺れるはど、わたしはますます気分が悪くなった。地震のせいでも恐怖のためでもなかった。
原因は、あのレバーだった!
まだ口のなかで、あの味がしていた。
いやはや千年もの古さのだ。
胃袋のなかであいつが沸き返ってるのが感じられた。
吐く息に蛆(ウジ)のようなやりきれないほど生臭い匂いがするのがわかった。

 背嚢を背負い、学校の生徒がはくようなパンツをはいた恰好で、ヨーロッパ中を徒歩族行してまわるそういうドイツ人たちのひとりが、かれは、わたしを揺さぶりながら、わたしの寝台に近づいてきて、横たわっているわたしを見つけた。
かれは、わたしを揺さぶりながら、こう言った。
「起きるんだ! 大地が陥没しようとしてるんだぞ。」
「陥没してほしいよⅠ おれは病気なんだ、」と、わたしは言った。
それでそのドイツ人は、わたしをベッドに置いたまま、先へ進んでいき、他の連中と一緒に大急ぎで表のほうへ駈けていった。
 どれほどはげしく地面が揺れようと、わたしは、そんなことはほんとに何とも思わなかった。
なぜなら、どっちみちじぶんは死ぬだろうと思ったからだ。
ところが、地面の震動は、長くは続かなかった。
まもなく、だれもかれも、みんな戻ってきて、眠った。
だが、わたしは二日間も病気だった。
それでわたしは、毎朝アルペルゴ・ポプラーレからわたしたちが追い出されるときには、公園のベンチまでたどり着くのがやっとの思いだった。

 ある日のこと、わたしは公園にすわって、アフリカへわたしが旅行したときのことについて原稿をつくり、それを「クライシス」誌に送り、「クライシス」誌のひとびとに、じぶんはイタリアで立往生してしまい、飢え死にしかけている・・・が、お金が届くまで何とか持ちこたえるようやってみるつもりだから・・・どうかこの稿料として二十ドルを出していただきたい、とたのんだ。
「クライシス」誌にいやしくも報酬を出してくれるようにと頼んだのは、あるいは報酬を出してくれるものと期待したのは、そめときが初めてだった。
さて、わたしは、必死になってその原稿がみんなに気にいってもらえるようにと、望んでいた。
 いろんな具合の悪いことというのは、いつも同時にあらわれるものだ。
わたしが病気になってから数日たって、波止場をうろついていたわたしたち六人ほ、黒シャツ隊員たちに追跡された。
かれらは、港の近くでわたしたちがサーカスのポスターに出ていた道化師を見て笑っているのを目撃して、アメリカ人の青年のひとりをなぐり倒した。
かれらファッショ党員たちは、わたしたちが問題のサーカスのポスターの隣りに貼りつけてあったムッソリーニからのメッセージを見て、あざ笑っているんだと思ったのである。

 そんなことがあってから一日かそこらして、わたしは、港のずっと離れた深い水域に碇泊している船の古くなった船体にペンキを塗る仕事を手にいれた。
船尾の下方にあたる船側の部分にペンキを塗ってほしいといわれたのだが、この仕事をやるには、ぺンキ屋の使う足場に乗らねばならず、多少の熟練が必要だった。
わたしは、どうやって足場を揚げ降ろしするのか、そのやりかたすらも知らなかったし、泳ぎもできなかった。
だが、ある親切な水夫がわたしを降ろしてくれて、わたしの代りにロープを結んでくれた。

sea.jpg

そんなふうにして、わたしは、水の上の同じ個所で一日中ぶらぶら揺れながら、いつまでも六フィートの同じ仕切りをせっせと塗っていた、――― 足場もペンキも、それにじぶんじしんも、もろともに海に投げこまれてしまうのを恐れて、思い切ってもっと上がってみるとか降りてみるとかすることができなかったのだ。

 まもなく、わたしは、ジェノアにいるのがいやでたまらなくなりだし、どこか他のところへ行きたいと思った。しかし、はるかジェノアの地にまでも、アメリカの人種差別の境界線は伸びていて、それにともなうさまざまの不自由な偏見がみられた。
わたしが港をさまよい歩いていた何週間かのあいだにも、幾隻かのアメリカの船が入港した。
そして、ひとりまたひとりと、白人の男たちは雇い入れられていった。
だが、どの船も、その乗組員に黒人をとろうとはしなかった。
わたしは、乗組員がすべて黒人であるか、または黒人のボーイたちの働い一ている部署をそなえた船が入ってくるのを待たなければ、雇ってもらえる見こみはなかった。
やっと、そういう船がやって来た。
そして船長は、ニューヨークへの帰りの航海のあいだ、給料なしで船賃分を働く人間として、わたしを雇い入れることに同意した。
わたしは、甲板長のもとに配置せられ、正規の水夫たちにまじって甲板を削ったり、ペンキな洗い落したりすることになった。
 わたしは、ジェノアとおさらばできて、嬉しかった。

ship[1]



 大西洋を横断している途中で、わたしは、一等航海士のシャツを洗ってやった。
それで、かれが25セントくれた。
ながいあいだお目にかかっていなかった最初のアメリカの金だった。


11月24日早くに、マンハッタン島の先端のドックに船が入ったとき、わたしは、もらったその25セントのうちから5セントのニッケル白銅貨を取り出して、ハーレムまで地下鉄に乗っていった。
 10ヶ月前わたしは、7ドルの金を持ってパリに着いたのだった。
わたしは、フランスに、イタリアに、それからスペインに行ってきたのだった。
それから、地中海をわたる大旅行のあと、わたしは25セントの金を持って帰国した。
だから、わたしの初めてのヨーロッパ旅行にかかった費用は、きっかり6ドル75セントだったのだ!
 ハーレムでわたしは、巻タバコを1個買った。
それでもまだ、5セントのニッケル白銅貨が1枚のこっていた。

liberty_island.jpg






スポンサーサイト
tb: 0 |  cm: --
go page top

ラングストン・ヒューズのジェノア 1

ラングストン・ヒューズのパリ 1

 フランスのパリで、ナイトクラブの職を得た21歳のラングストン・ヒューズ。
 それから、数ヶ月間、パリで働くこととなる。
 ただ、働いていたナイトクラブは、客の入りがあまりよくなかったので、その夏のあいだ閉店して、店の内装をリニューアルすることになった。
 だから、そこの従業員も夏のあいだバカンスをとり、再び秋口に戻って、復職しなければならなくなった。
 
 さて、ラングストン・ヒューズ、どうしようか、と悩んでいると、
 同僚のイタリア人、ルイギとロメオが、「もしよければ、一緒にイタリアまで行かないか?実家でゆっくりしていけばいい」と誘ってくれた。
 ラングストンは、イタリアへ一度行ってみたいと思っていたところなので、彼らの誘いに乗せてもらうことにした。

 そして、夏のあいだ、イタリアを十分楽しんだラングストン・ヒューズは、秋の気配とともに、パリに戻ろうと考えた。

 1924年の秋・・・・・・・・
 そこから、再び、ラングストンの放浪が始まる。


 *ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より


・・・・・・・・・・・・・
 おそろしく込みあっている三等車に乗って、イタリアを横切ってパリへ帰る途中、わたしは車中で寝入ってしまった。
わたしは、お金とパスポートとを上衣の内ポケットにしまって、ピンで留めていたのだった、―― その昔、子供だったころ、トビーカあるいはキャンザス・シティにいる母親を訪ねていくわたしを、ローレンスで列単に乗せてくれるときに、わたしの祖母がいつもこうやって大事なものを守るんですよ、と教えてくれた方法だ。
当時、この目的のために、わたしは、旅をするときにはきまって、いつでも直ぐに使えるようにと、安全ピンを備えていた。
それでわたしは、車中にすわったままで、ぐっすりと深く眠っていたのだ。
目をさましたとき、安全ピンもパスポートも、それにお金も、すっかり失くなってしまっていた!何者かにすられてしまったのだった。

 盗難に遭ったあと、わたしには、ズボンのポケットに残っていたたった数リラのお金しかなくなってしまった。
わたしは、ジェノアで列車を降りた。
パスポートがなくては、それに金もないとあっては、フランスに入るわけにはゆかなかった。
そこでわたしは、アメリカ領事のもとへ出かけていった。
領事は、親切な物事を気にかけないひとだったが、しかし、わたしのためにできることは何もないと言い、ただ、わたしが船乗りであったところから、故郷まで辿り着けるように、船に乗り組むのを - わたしを雇ってくれるような船があれはの話だが―― 署名承認することができるだけだと言った。
かれは、イタリアで立往生したアメリカ人たちを援助してやれるような資金がわたしにはないのだ、と言った。
「さようなら!」かれはそう言って、わたしを立ち去らせた。

 そんなわけで、わたしは、市の簡易宿泊所であるアルベルゴ・ポプラーレヘ出かけていき、一泊二リラでそこに泊まった。

genovaH.jpg

そこは、高い数階の大きな近代的な建物で、各部星に幾つかずつのベッドが入っている金網のはまった獄舎のような清潔な部屋をいくつも備えていた。その建物には、とても変わった規則があった。
たとえ一文の金もなくても、十日間はそこに滞在できて、ベッドで眠れるのだった。
それから、十日が経ってもやはり金がなくて、どこへも行くところがなければ、さらに十日間、地階のコンクリート床で眠ればよいのだった。
だが、その後は、一泊二リラという規定の料金を支払うか、さもなければ、そこを完全に引きはらわなければならないことになっていた。

genovaH2.jpg

わたしは、そこを退去しなければならないようには一度もならなかった。
それというのも、時折りわたしが、何日聞かの仕事にありつけたからだったが、その仕事というのは、船から遠く離れて、まる一日、痛飲して歩きたいと思っているどこかの船乗りの代りに働いてやることなのだった。
 アルベルゴ・ポプラーレに泊まっているものたちにとって、ただひとつ困ったことは、昼間その建物に立ち入ることが禁じられていることだった。
そこは、午後の四時に開いて、その夜の宿泊登録が行われ、そして朝の七時まで泊まれるのだった。
それからは、ふたたび夕方になるまで、宿泊者はのこらず外に出ていなけれはならなかった。
それで、わたしは、降っても照っても、海岸通りで暮らしながら、毎日、新鮮な空気だけはたっぷり吸った。

わたしは、ジェノアの浜辺をうろつきながら物を拾う浮浪人に- 帰ってゆくべき船もなければ、はっきりした収入の途もない水夫に- 落ちぶれてしまった。

 食べないですます日もあったが、心配しなくてすむような日ときたら、まずなかった。ヒッチハイクして、トリノまで辿り着いてやろうか、それともデゼンザーノに引きかえしていってやろうか、と考えてみた。
だが、そのころもまだルイギとロメオがパリに帰っていってないという保証はなかった。それに、よしんばかれらがまだあそこに残っていたとしても、すでにかれらからさんざん手厚いもてなしを受けている身でありながら、その上さらにかれらやかれらの家族たちの招待にあずかれるものと思うのは、厚かましく不躾なことに思われた。
さらにまた、どうしてかれらにわたしが新しいパスポートを手に入れるのを手伝ってもらえようか? パスポートを手に入れるには、十ドルも費用がかかったうえ、ながい時間とたくさんの宣誓口供書が要ったのだから。
 
事によったら、もし仕事が見つかれば、しばらくイタリアにこのまま居つづけるかもしれないな、とわたしは思った。けれども、ジェノアには、あぶれたイタリア人たちにとって、そしてもちろんわたしにとっても、仕事が全然なかった。
それにわたしには、誰ひとり知りあいがいなかった。
イタリアでわたしの知っている唯一の名前は、ゴードン・クレイグという名前であった。ものの本で、かれがフィレンツェに住み、そこで仕事をしているということを読んだことがあったからだ。
もちろん、わたしはフィレンツェがとても見たかった。
それで、もしかしたらそこまで歩いていって、ゴードン・クレイグに何か仕事を・・・ブルースにそのこしらえかたを教わったことのあるメリーランド風のチキンをもしかれが好きなら・・・・事によるとコックの助手の仕事ぐらいなら・・・・もらえるように頼めるかもしれない、と考えた。
だが、このような考えを思いついた週、ジェノアはどしゃ降りの雨だったので、わたしは、目論みどおりに徒歩で出発することはできなくなってしまった。
 しかし、飢え死にするということは、かなりむずかしいことだ。
わたしは、ジェノアで、生まれてからまだ経験したこともないようなひもじい思いをした(ただ、何年か後にマドリッドで、内乱の時期にこのときと同じような日にあったことはあるけれども)。
ときどきわたしは、空腹のあまりパン屋の窓とか店の陳列箱の前にたたずんで、何か口に入れるものを盗んで、しかも引っ捕えられて豚箱に放りこまれるようなことにならないですむ方法がないものかなあ、と思うことがあった。
だが、わたしには盗みをやれるような心臓はなかったし、それに盗まざるをえないほどの絶体絶命の状態に立たされたこともなかった。というのは、飢えが頂点に達するちょうどそのころになると、いつも何かがもちあがるような気がしたからだ。
第一に、わたしは、港での片手間仕事にありつくことでは運がよかったし、第二には、まもなくわたしは、一群のやりくり上手の仲間たちを見つけ、かれらと一緒にほっつき歩いたからだ、・・・・かれらは、一国だけでなくあちこちの国で波止場をうろついた経験の持主だったし、また、ほとんど毎日てきぱきと数リラかの金をかせいでくる方法を知っているのだった。

(1833-1895)[1]




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく




tb: 0 |  cm: --
go page top

ラングストン・ヒューズのパリ 5

ラングストン・ヒューズのパリ その4

*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より

 

 ソーニャは、フォンテーヌ街にあるゼリィの有名なナイト・クラブで、踊り子の仕事のロを見つけた。
ショウに出るダンサーとしてではなく、おとくい客を相手の踊り子としてであった、 - つまり、あちらこちらのテーブルにすわって、客たちを相手に踊ったり、かれらにすすめて、もうひとつ、いかが、――― ついでまた、もうひとつ、いかがと、――― 註文を、たいていはシャンペンの註文をさせるのが、彼女の仕事だった。
彼女は、給料はもらえなかったが、一本以上のシャンペンを客に取らせることができたら、シャンペンひとびんごとに幾らという割合で手数料を受けとった。その結果、彼女は毎晩、何杯となくシャンペンを飲んだ。それというのも、彼女が手つだってシャンペンのびんの空になるのが早ければ、それだけ早く次のひとびんのシャンペンが現われるし、注音ぶかい給仕人によって電光石火のごとくすばやくそれが抜かれ、おまけに帳場の彼女の欄のところに追加の手数料が算入されるからだった。

Paris_2_041[1]

 クラブの踊り子たちは、たいてい、毎夜のようにシャンペンを飲むのをほんとうは楽しんでいたわけではなかったので、彼女たちは、機会があればシャンペンを氷のバケツにどっと流して棄ててしまうか、あるいは給仕人たちが、もし客が抜け目のない質でなければ、まだ半分ばかり中身の残っているびんをそのまま運びさってしまっては、彼女たちの手助けをしてやるのだった。そして、そのびんが目の前からみえなくなると、かわいい踊り子は、溜息をつきながら、こう言うのだ。
「今夜はとってもむせるわね、ねえ、あたしたち、もう一杯だけ、シャンペンを飲んでいけないでしょうかしら?もしもその客がすこしでも気のいい男であれば、もうその時にはすでに、まるで魔術のようにかれのテーブルの上の氷バケツのなかに現われていて、命令さえ下ればキルクが抜かれるばかりになっているもう一本、二百フランもの値段の1クオート容量のコルドン・ルージュを、とうぜん給仕にうなずいて開けさせるだろう。
 夜によっては、ゼリィのナイト・クラブは大いにもうけたが、また、そうでない夜もあった。
そんなわけで、ソーニャの収入も、とてもまちまちだった。そのナイト・クラブは大きかったし、ひじょうに多くの女の子たちがそこで働いていたから、彼女の収入は決して大きくはなかった。それに、夏の季節ではなかったので、アメリカ人の観光客たちが落していってくれる金が、収入を伸ばすというわけにもゆかなかった。
それで、しばらくしてソーニャは、別のもっと小さなふたりしか踊り子のいないクラブで働くようになった。
それは、わたしたちふたりがたがいに知りあって三週間ぐらい経ってからのことだった。
 そしてわたしは、まだ仕事の口を見つけてはいなかったし、じぶんの持ってた服は、あらかた売ってしまっていた。
 ところが、ある朝、夜明けに、彼女は帰宅すると、嬉しそうな叫び声をあげながら、わたしを起こした。
「ねえ、これを見て!」彼女は叫んだ。彼女は、ハンド・ハッグを開けた。と、そこには、お金がいっぱい入っており、それらのお金が外へ落ちて、ベッドのいたるところに散らばった。
 「どこで手に入れたんだい?」わたしは眠たそうに尋ねた。
「もらっちゃったの、」と、彼女は言った、「あるデンマーク人からよ、どのみち、あのひとむだづかいしてしまう金だったんですもの。」 

NightMontmartre[1]

 パリにはじめて見物旅行に来ていたあるデンマーク人が、ソーニャにすすめられて註文した8本ものシャンペンでへべれけに酔ってしまったらしい。そこで、看板になったときに、彼女は、親切にもこの男が勘定を払うのを手つだってやりもした。そして、そうやっているうちに、なにげなしに、そのデンマーク人のお金を大きく一掴み、勝手に取ったのだ。
「みんなちょうだいしちゃったってわけじゃないわ、」と、彼女は言った、「ほんのわずか要るだけですもの。」
 彼女は、金が手に入ったことで、とてもうれしそうだった。
わたしも、そのとおりだった。
そこで、わたしたちふたりとも身仕度を整え、床屋に出かけてゆき、髪を刈ってもらった。わたしは、靴をみがいてもらい、ソーニャは、マニキュアをしてもらった。
それからわたしたちは、プラース・ピギァールの、あるカフェでランチを食べた。そのあと、ふたりは、プールヴァールに映画を観に行った、パリでのわたしのはじめて行った劇場だった。そして夕暮れどきに、わたしたちは、モンマルトルの演奏家たちが午後おそく徘徊する通り、ブリュイエール街にある黒人たちに〈蚤の穴〉と呼ばれている小さなカフェのところまで戻っていった。
 そのカフェは、ひとで込みあっていた。わたしたちは、ブランデーを取って、そこから通りがながめられる大きな窓のちょうど内側のところにすわっていた。と、ちょうどその時、ふいにソーニャがテーブルの下にもぐりこんだのだった。
 びっくりして、わたしは、彼女が気を失ったんだと思った。だが、そうではなかった。彼女は、気を失ったのではなかった。テーブルの下の床にすわって、彼女は、あたりのひとびとみんなに静かにして、じぶんにかまわないでくれと、身振りで示していた。
彼女はわたしに、例の大男のデンマーク人が、ちょうど窓の外のところを通りかかってるのよ!とささやいた。
その男は、ぶらぶら歩きつづけていき、丘を下って黄昏のなかにまぎれこみ、見えなくなってしまった。

paris1.jpg

 そのころはもう、わたしがパリに来てすでに一カ月が経っていたが、あい変わらずわたしには職がなかった。
わたしは、仕事の口を求めてさまざまなところへ出かけていったが、そのなかには、フランス人の従業員たちから追いかえされんばかりの日にあったところも幾つかあった。ことに、ある大きな建築現場に行ったときなどひどかったが、そのときには、そこの怒った労働着たちが、一瞬わたしに雨あられと煉瓦を投げつけてやりたい、というくらいの気持になっているのがわたしに感じとれた。
 「やぼすけめ!」かれらは絶叫した。「きたならしい外人野郎め!」
 そのころ、フランス人の労働者たちのあいだには、烈しい排外的感情があったようだ。というのは、非常におおくのイタリア人やポーランド人がパリにやってきて、十分な賃金をもらってはいないフランス人たちよりもさらに低い賃金で働いていたからだ。わたしはイタリア人でもポーランド人でもなかったが、かれらには、わたしがどこかの外国人であることはわかっていて、わたしが気に入らなかったのだ。それで、さんざんわたしを罵倒したのだ。

 そのときもまだ、マッキースポートの母親からは手紙はなかった。いわんや、二十ドル送金したという電報など、来はしなかった。
ようやく、故郷から一通の手紙が届いたが、その内容ときたら、一枚の紙のうえに書かれたものとしては、それほど長いものは見たこともないようなさまざまな災厄の一覧表であった。
 第一に、母はこう書いていた。わたしの継父がひどい肺炎にかかって町の病院に入っているということ。彼女自身も仕事はなくて、お金などないということ。わたしの弟が、けんかをやらかしたために、退学させられたということ。さらに、こういったすべてのことのほかに、マッキースポートで河が増水しているということ。水はもうすでに、戸口のところで膝まで没する深さに達しており、もしもこれ以上に水嵩が増すようなことになれば、彼女は漕ぎ舟を見つけて、家を移らなければならないとのことだった。階下に住んでいたユダヤ人家族は、親類のところに滞在するために避難していったとのことだった。しかし、母には行き場所がなかった。そして、二十ドルはおろか、二セントの切手すら送ってはや
れないとのことだった。それにまた、こうも書かれていた。はるか遠くのフランスくんだりで、いったい何をやってるんだね? どうして、堅気のひとびとのように家に居て、就職して、働きはじめ、かあさんを助けてはくれないんだね? -船乗りになったりして、世界中をぷらつき回りながら、パリから金を送ってくれなんて手紙を寄こしたりしないで。
さて、わたしは、いい気持じゃなかった。
いったいどうやって故郷に帰ったものかしら、いったいどうやってかあさんは、あんなにも悩みをかかえて、やっていくのかしら、とわたしは思った。
 さいわい、その手紙が届いてから二、三日して、わたしはじぶんである仕事を見つけた。わたしは、モンマルトルの大きなナイト・クラブはすべて当ってみていたので、こんどは、小さなナイト・クラブに当ってみようと決心した。そこで、ある日、宵のうちに出かけていった。わたしは、フォンテーヌ街に門番(ドアマン)のいないある小さなクラブを見つけた。わたしは、中へ入っていって、そのクラブの持主に面会を求めた。そのクラブの持主は、黒人の婦人でマルチニック島出身の女であることがわかった。
わたしは、彼女にじぶんの知ってるいちばんりっばなフランス語で丁寧に話しかけ、門番の必要はないでしょうか、と尋ねた。
ちょっとの間、彼女はわたしを見つめていたが、けっきょくこう言った。
「いいわ!5フランに夕食つきよ。」
もちろん、わたしは承諾した。
すぐさま、彼女は、料理場への道を教えてくれた。そしてその料理場で、わたしは、料理人から食物をあたえられた。
そしてその夜十時に、わたしは、フォンテーヌ街に面したそのクラブの戸口の外のじぶんの持ち場についた。
料理人からあたえられたたっぷりの量の夕食を食べ、その夕食と一緒に出された大びんいっばいのぶどう酒を飲んだおかげで、わたしはむやみに睡たくなってしまい、それで、ドアの外の通りに立ったまま寝入ってしまった。
どうにもしようがなかったのだ。
ほとんど夜どおし、わたしは眠ってしまった。

ピガール

 わたしは、制服を持っていなかった。
けれども翌日には蚤の市で金モールの飾りのある青色の帽子を買ったので、それをかぶると、ちょっと威厳がそなわったようだった。
わたしの給料は、一晩につき五フランで、アメリカの金で二十五セントよりも少ない額だったが、それでもパリにいるわたしにとって、もっとましなことがやれるようになるまでには、それはたいした助けとなった。
 
わたしがマルチニック島生まれのその婦人のために働くようになってから間もなく、ソーニャは、ル・アーヴルで踊る契約を取りつけた。
 それで、三月のある雨模様の午後に、わたしは、彼女にさよならを言うために、彼女と一緒にサン・ラザール駅に出かけていった。
彼女は、泣いた。
そしてわたしは、彼女の泣くのを見ると、いい気持がしなかった。
彼女は、すばらしい友だちだった。
わたしは、彼女が好きだった。

station.jpg

長い列車が出て行くとき、彼女は、車窓からわたしに手をふった。
わたしも、彼女に手をふってこたえた。

2081523342_96c2cfab8e[1]



そしてその後、ふたたび彼女に会うことはなかった。



当時のモンマルトル(1925年)
Paris_Montmartre_in_1925.jpg


*ラングストン・ヒューズのイタリア・ジェノア 





tb: 0 |  cm: 0
go page top

ラングストン・ヒューズのパリ 4

ラングストン・ヒューズのパリ その3

*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より



 彼女のコートが、ドアのうしろの釘にかかっていて、窓の下に小さなかばんがひとつ置いてあった。
彼女は、はだしだった。
彼女の濡れた靴が、熱の通っていない暖房器の下に置かれていて、ストッキングが、乾かすためにベッドの脚にかけてあった。
「きみもここにいるのかい?」と、わたしは尋ねた。
「もちよ! その通りだわ! だってひとつしか部屋を探さなかったでしょ?」
 彼女は、帽子を脱いでいた。
彼女の赤味がかったブロンドの髪は、柔かく波うっていた。
 彼女は、笑いに笑った。
わたしもまた、何といってよいのかわからなかったものだから、同じように笑った。
「あたしも、文無しなのよ、」と、彼女は言った。

rain.jpg


 わたしは、ベッドに腰をおろした。あやしげな英語で、彼女はじぶんの身の上話をしてくれた。
彼女の名前は、ソーニャといった。
彼女の属していた舞踊団は、ニースでばらばらになったのだった。
彼女は、パリ行きの切符を買ったのだった。
そしてここ、
―――寝台だけでいっぱいで、空いてるところはといえばやっとドアの開けられる分だけしかなくて、味けない壁に服を掛けるための釘が数本あるそんな部屋に、わたしたちふたりはいたのだ。
暖房器には、暖気はなかった。食事もなく、洗面器台もなく、椅子もなく、ただ、椅子の役もすれば、いろんな物をのせておく場所の役もする、奥行のある窓下に取りつけられた腰掛けがあるだけだった。

寒かった。
おそろしく寒くて、吐く息が目に見えるほどだった。
でも、間代が安かったので、ぜいたくは言えなかった。

 わたしたちは、何ひとつ註文はつけなかった。
 わたしは、じぶんのスーツケースをベッドの下に置いた。ソーニャは、彼女の服を釘に掛けた。
彼女は言った、
「ねえ、何フランか持ちあわせがあるんなら、あたし、食料雑貨屋へ行って、チーズと、パンを少しばかりと、ぶどう酒を少しばかり、買ってくるわ。それで、夕食にしましょうよ。ここで食べるのよ。そのほうが安あがりだわ。」
 わたしは、彼女に十フランをあたえ、彼女は夕食の買物に出かけていった。
わたしたちは、ベッドの上に食物をひろげた。
とてもおいしくて、しかも、そのうえ費用がわずかしか、かからなかった。チーズ、かりかりに揚げたじゃがいも、できたてのパン、それにぶどう酒が一本というその食事は。

bread-wine[1]

しかし、あともう幾日かのうちには、じぶんの持ってるフランがすっかり失くなってしまうことが、わたしにはわかっていた。
そうなったら、ぼくたち、どうしようか?
ところがソーニャが、わたし、働き口を探してるから、そいで、きっともうすぐ見つかると思うから、そうしたらふたりとも食べられるようになるわ、と言った。
 無一物の者たちのあいだに急速に生まれる友情なるものに慣れてはいなかったので、わたしは、彼女がほんとうにそのつもりなのかどうか、いぶかった。

その後わたしは、彼女が本気だったんだということを知った。
 彼女が、最初に仕事を見つけた。
そしてわたしたちはふたりとも、食べた。

 部屋を借りたその翌日、わたしはマッキースポートにいる母に借金をたのむ手紙を書いた。送金を依頼する手紙を家に書いたのは、その時がはじめてだった。わたしは、母にじぶんがパリで立往生しているから、かあさんでもあるいはとうさんでもいいから、どうか二十ドルを電信で送ってもらえないだろうか、と伝えた。だがわたしは、その手紙がアメリカに届き、それからその手紙の返事がかえってくるのを待たなければならない十日ないし十二日のあいだ、どうやって暮らしていったものかなあ、と思った。けれども、頼んだお金は、もしわたしの継父にその金があれば、送ってもらえるだろう、とわたしは確信していた。かれ、継父は、いつでも気前がよくて、気のいい男だったのだ。
 たとえ一ペニーだろうと、実の父親に手紙を書いて借金を頼むくらいなら、むしろわたしはパリで死んだほうがましだった。なぜなら、わたしには父から返ってくる答えがわかっていたからだ。
「それみろ、わしの言うことを聞いてればよかったんだ。わしの頼みどおりに、スイスに留学してくれればよかったんだ!」
それでわたしは、たとえ飢えのために骸骨のように痩せ細り、栄養失調でルーヴル博物館の階段で死んでしまおうと、父には手紙を出そうとは思わなかった。

 飢えもまた、襲ってきた。日に一度のパンとチーズとでは、飢えを感じないでいるわけにはゆかなかった。
数があるわけではない衣服を売り食いすることでは、飢えを感じないでいるわけにはゆかなかった。
夜ははやく床につき、朝は遅くまで寝ているというやりかたでは、飢えを遠ざけておくことはできなかった。

働き口を探しもとめ、しかも常にはねつけられるのでは、飢えを遠ざけておくことはできなかった。
ひとり寝のわびしさはなくとも、それだからといって、飢えが遠ざかるわけのものでもなかった。
 ソーニャは、毎朝ベッドで、身体を伸ばす運動をした。
部屋が狭くて、床の上ではやれなかったからだが、彼女はそうやって踊りの仕事が見つかったばあいに備えて、身体の形がくずれないようにしようとしていたのだ。
しかし、モンマルトルにはロシアの踊り子ならわんさといて、――― それに仕事はなかった。
 彼女は二十四歳で、わたしよりも年上だった。
彼女の父親は、ロシア革命のときに反革命の側に立っていたので、トルコに逃れたのだった。
かれは、ルーマニアで死んだ。やがてソーニャは、ブカレスト、ブダペスト、アテネ、コンスタンチノープル、トリエステ、ニースで踊った。

ballet[1]

そしてニースで、彼女が加わっていた舞踊団は、座頭が病気になり、契約や公演許可の期限がつきたために、解散になった。
 そこでソーニャは、――― 彼女はそれまで、わたしと同じようにまだ一度もパリを見たことがなかった・・・・・・・・荷物をまとめ、北のほうにやって来たのだった。

 ところで、彼女の衣裳は、すべて質に入っていた。
その上にまた、彼女のいちばんいい服も。それでもなお、彼女の外出姿は、そう悪くなかった。彼女は、昂然として歩いた。そして、部屋の壁にしなやかに掛かっている、真珠色のぴかぴかする金属片の飾りが縫いつけてある夜会服一着だけは、どうにかこうにか彼女は、高利貸しの手に渡さないですんだのだった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく




tb: 0 |  cm: --
go page top

ラングストン・ヒューズのパリ 3

ラングストン・ヒューズのパリ その1
ラングストン・ヒューズのパリ その2


*ラングストン・ヒューズ自伝1
「ぼくは多くの河を知っている」木島始訳より

 
 彼女は、これからわたしを連れていこうというホテルは、モンマルトルでいちばん安いところですよ、と答えた。
「ちっとも高くないのよ、あんた。」だが、彼女が話すにつれて、わたしは、彼女のフランス語はわたしのと同じくらいにひどいものだということがわかったので、わたしたちは会話をふたたび英語に切りかえたが、英語なら、彼女はかなりよく話せた。
 彼女は、じぶんはパリに来て、まだあまり長くはないんだということ、あるバレー団と一緒にコンスタンチノーブルから来たんだということ、それに、じぶんはロシア人なんだということを、話してくれた。それ以上のことは、彼女は、じぶんのほうからは言おうとはしなかった。
二月のしとしとと降る雨がわたしたちの顔を濡らし、わたしの靴のなかは、水でびしょびしょだった。そして彼女もまた、その薄いとはいえかなりシックなコートを着ているからといって、べつだん暖かそうには見えなかった。

phaubry4[1]

くねくねと曲がりくねった狭い通りを、あちらこちらへと何度か曲っていったあと、わたしたちは、目的のそのホテルのところにやって来た。それは、高い小ざっぱりとした様子の建物で、玄関の門はタイル貼りだった。ちっぽけな居間から、大きな身体のフランス人の女が現われた。
わたしを案内してきた少女は、その婦人に部屋のことを話した。
このかたのためにいちばん安い部屋をおねがいするわ、と言って。
「承知しましたよ、」と、その婦人は言った、「ほんとに小さな部屋がありますよ、週ぎめで五十フランなの。」
「それにしよう、」と、わたしは言った、「二週間分お払いします。」そんなに払ってしまえば、残るお金がほとんど無くなることはわかっていた。とはいえ、わたしは、どうしてもねぐらを確保したいと思っていたのだ。
 わたしは、そのホテルへわたしを連れてきてくれたことにたいしてその少女に礼をいい、こんど例のカフェで会ったときには、きっとコーヒーをご馳走するから、わたしにつきあってほしいと招待した。
わたしたちは、プラース・ブランシュで別れた。そしてわたしは、もうこれで置いておく場所ができたので、預けてあったかばんを受けとりに駅へ出かけていった。部屋代とかばんの預かり賃とを支払ってしまうと、わたしの手もとには、ちょうどコーヒーにロールパンという食事を一週間つづけてゆけるだけの金がのこっていた、・・・・・一回の食事にコーヒーとロールパン一個いがいには何も取らないでいるとすればの話なんだが。
 わたしは、とてつもなく空腹だった。
そして地下鉄でかばんをあずけた駅に着くのに、かなりの時間がかかった。

montmartre-thumb[1]

わたしはその夜、九時頃に、しとしとと降る肌寒い雨のなかをホテルにもどって来た。わたしの部屋の鍵は、玄関の棚に掛かってはいなくて、例の女家主が階上へいくようにと指さしたので、わたしはそのまま上っていった。荷物のかばんをさげて、長いこと上ってゆかねばならなかった。で、わたしは、踊り場にたどり着くたびに、ちょっと休むために立ち止った。朝から晩まで、口に入れたものといっては、クロワッサンが二個きりだったから、空腹のあまり弱りきっていたのだと思う。
じぶんの部屋に着いたとき、わたしは、ドアの下から洩れている明りを見かけたので、もしかしたらじぶんの部屋の番号をまちがえちまったのかもしれんぞ、と思った。わたしは、ためらい、それからノックをした。
ドアが開き、例のロシア人の少女が立っていた。
「ハロー!」と、わたしは言った。
ほかに、どう言ったらいいのか、わたしはわからなかったのだ。
「あたしが先に帰ったわね、」と、彼女は言い、そして、微笑んだ。

russia.jpg




  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

tb: 0 |  cm: --
go page top

新着記事+関連エントリー

カレンダー

カテゴリ

最新コメント

プロフィール

ブログ翻訳

旅行業の本

添乗に役立つ本

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。